Wikipedia:井戸端/subj/個人の感想に過ぎない出典と、そうではない出典の基準は?

個人の感想に過ぎない出典と、そうではない出典の基準は?[編集]

個人の感想に過ぎない出典と、そうではない出典の基準

について話そうよ 『ウィキペディア 感想』をネット検索して来たがタイトルと関係ない事をあーだこーだと10年前にね。

ウィキペディアに感想書いて国批判差別は止めてほしい。 『可能性』や『噂』という信憑性がない印象操作は止めてほしい。


竹内啓一」と「稲葉三千男」という記事について、要出典とされた記述に、出典を示したところ「一故人の感想は不要。Wikipediaは情報を無差別に収集する場所ではありません。」というコメントとともに記述自体が削除されてしまいました。

ちなみに、それぞれの出典の執筆者については、死去されたという情報は見当たりませんので、「故人」は「個人」の誤記かと思われます。

こういう場合、どういう出典を示せれば、記述を戻して差し支えないのでしょうか?--山田晴通 2010年11月3日 (水) 09:17 (UTC)[返信]

出典はwikipedia:信頼できる情報源による二次資料が望ましいでしょう。Wikipedia:検証可能性をご覧ください。個人のブログなどは出典としては難しいと思います。--パタゴニア 2010年11月3日 (水) 09:47 (UTC)[返信]
一個人といってもこの場合、十分ウィキペディアでも特筆性を満たしそうな人物の意見・発言だし、この場合、出典を除去したIPのほうが問題だね。「情報を無差別に収集する場所ではありません」というのを拡大解釈しすぎている。--Afaz 2010年11月3日 (水) 10:08 (UTC)[返信]
元市議さんのインタビュー記事にしても、発言をそのまま掲載しただけで第三者の検証が入ったものとは思えません。その元市議さんの発言を第三者が検証の上、それなりの媒体に載せた物が信頼できる情報源だと思います。--パタゴニア 2010年11月3日 (水) 11:32 (UTC)[返信]
インタビュー記事には通常インタビュワーによる編集と、ある程度の事実関係の調査がおこなわれるものだし、検証が入っていないという認識はおかしいね。--Afaz 2010年11月4日 (木) 05:13 (UTC)[返信]

いずれも編集参加させていただきました。いずれも一個人の感想は不要といった理由でばっさりすべきものではないと思います。素性の知れない一般人による評価の場合とは訳が違います。竹内氏については近しい人物による人柄などの評価は好意的なものとなりやすいでしょうが賛美するような記述でなければ問題はないでしょう。稲葉氏については結構難しいのですが市政での与党的立場を取ったと見られる元議員の意見は十分に信頼できる情報源と言えると思いますが市政に対して何一つ不満を持たれないケースというのもそうあるものではないと思いますのでネガティブな記述として記載するのが適当かどうかといった疑問があります。革新市長として少数与党であり苦労したことを同元議員の証言をもとに記述する方が適当なように思っています。--Tiyoringo 2010年11月3日 (水) 14:29 (UTC)[返信]

特筆性のある人物の発言ですので掲載可と考えます。出典のある記事の除去は合意を取ってからですので、いきなりの削除はしないで下さいとノートに書いて、戻して様子を見られてはどうですか?--Gyulfox 2010年11月3日 (水) 17:02 (UTC)[返信]

何もする必要は無いと思います。要出典への対処とは要は何でも徒に文献を示せばいいわけではありません。「信頼できる情報源による二次資料」や「検証可能性」に該当する情報に基づいた記述ではなく単なる一私人の感想をのせたことを執筆者が認識しているのなら「記述を戻」す余地はないと思います。--114.22.39.159 2010年11月3日 (水) 18:08 (UTC)[返信]

114.22.39.159のIPさんは山田晴通さんの提示した出典を除去したIP氏と同じISPですが、ややこしいからアカウント取られたほうがいいと思います。114.22.39.159のIPさんと私は考えが近いだけに痛くない腹を探られたくありません。--パタゴニア 2010年11月3日 (水) 18:36 (UTC)[返信]

実例として挙げられている二つの記述は、除去するのは適切ではないと考えられます。

竹内について、人物記事でその人物の外観を簡略に記す事はあったほうが良いと思いますし、単に身長や体重などの数値のみではなく、資料が得られるなら、他者の印象を含めてもいいでしょう。人によって大きく異なるであろう性質のもの、独特の印象の持ち方であれば、誰の描写なのかを記す必要があります。ここでの記述は、そうしたものではなさそうですが、今のところ、一人の印象であるということを重視するなら、誰による描写なのかということを本文に組み込んでもいいかもしれません。

稲葉については、業績への評価について、その評する者が評するに値する立場にあり、中立性に配慮して記述するならば、記事に含まれるべき記述となるでしょう。情報源となっている市議が稲葉の政治姿勢に対して特に近い、あるいは対立していたということでなければ、一方で放漫財政と評されることになったとし、また市議会側の責も認めるという記述はウィキペディアでは好ましいものでしょうし、他に情報源を示した政策批判、あるいは政策の擁護についての記述がないのですから、この情報を除去するべきではないと思われます。

記述の除去については、情報源が示されていない他の記述とともに除去するのならばともかく、情報源が示されている部分を除去しているというのは、記事の修正としては適切ではありません。過度に賛美したり批判的だったりする記述や、いかに信頼できる情報源が得られたとしても書くべきではないようなとるに足らない事柄の記述であれば、情報源が示されていても除去すべき場合もあるでしょうが、今回はそのような事例ではないと思われます。

一般論として、ウィキペディアという百科事典は、信頼できる情報源だけで構成できるものではないです。信頼できる情報源のみで構成できるものに限定するというのは、選びうるひとつの道ではあるとしても、今のコミュニティがそれを選んでいるという印象は受けませんし、専門家ではない執筆者の作業であることを踏まえれば、信頼できる情報源だけで、百科事典の全項目をカバーできるかというと、かなり疑問です。そこには、語学力の問題や、(特に海外の)学術文献へのアクセシビリティといった問題もふくみます。パタゴニアさんの主な執筆分野は、学術分野としても実務的なものとしても研究の蓄積があり、日本語での信頼できる二次資料も豊富ですから、十分信頼できる二次資料を元に書くことができますし、ウィキペディアでもそのような資料を情報源とすることが求められます。正確性も特に問われる分野でもありますし。しかし、他の分野には他の分野の事情や、それを補うための資料の扱い、選び方のノウハウもあるということをご理解ください。

たとえば、元市議さんのインタビュー記事は、その市議を取材対象として選び、その発言から重要であると思われる部分を抽出し、記者が顕名で執筆しているものであり、janjanというメディアに掲載されたものです。市議自身による情報発信とは違いますし、匿名情報でもないという点で、一定の信頼性が担保される。この手の発言を取り上げて検証する二次資料というものは、よほどその発言が問題視されなければ出てきません。どちらかというと、この手のインタビュー記事や、自主的な情報発信などを集めて、個々の発言者、発信メディアの立場や信頼性を評価し、発言内容などに齟齬がないかといったことを検討し、比較しながら、まとめたものが、期待される二次資料となります。

項目自体の存否に関するところでは、ある程度の情報源の信頼性や性質と、そこでの取り上げられ方は、考慮すべき要素だと思います。存命人物の批判的な記述や、ありそうもない事実、論争になりがちな項目の記述など、信頼できる情報源がないのならば積極的に除去してもいい、除去すべき記述もあります。また記述される事柄について、その情報源が何を示しているのか、というようなことも含めて、同じ情報源であっても、信頼できるかどうかは変わってきます。そうではない範囲については、まずは情報源を示すことが求められるべきでしょうし、多くの人が情報源を示すことを実践し、情報が蓄積されたところで、記事の記述の整理と情報源の整理をすることで、記事全体の信頼性を高めればよいと思います。

ウィキペディアの質的な向上のためには、削除や除去も必要ですが、作業する上で、どこから手をつけるか、手をつけたときに、どの記述をどういう理由で除去するか、というのは、当然に作業者に問われるわけです。執筆者が、どういう記事で、どういう情報源で、どういう記述をするか、というのと同じことですけれども。--Ks aka 98 2010年11月4日 (木) 16:47 (UTC)[返信]

Ks aka 98さんの言われることは分からないではないですが、それでは記事の本数は増えても、日本語版の質の向上は望めないと思います。尚、「竹内啓一」と「稲葉三千男」の記事で削除をしたのが私でないことはKs aka 98さんならお分かりになるはずです。--パタゴニア 2010年11月4日 (木) 17:45 (UTC)[返信]
除去したのがパタゴニアさんでないのは承知しています。
たとえば、チンドン屋の項目は、ぼくが(主に)書いたものです。チンドン屋は、紙の百科事典にも存在する項目です。小学館だったか平凡社だったか忘れましたが、ぼくが確認した紙の百科事典では、堀内敬三が書いていて、それは主に彼の見聞に基づくものです。堀内は戦前から音楽界の重要人物であり、それにしては大衆的なものを好み、挙げているもののほか、『音楽世界』などの雑誌でも幾度かチンドンへの言及もありましたが、音楽に関しては学術の人ではないですし、学究的にチンドンを調査したり、当事者に取材したという記録は見覚えがありません。吹奏楽については滞米していた頃に、かなり資料を集めていたようですが。
記事で挙げている資料は、当事者による著書もあれば、たとえばプレイボーイのような雑誌記事での発言を参照しているものもあります。広告大福帳などは聞き書きと思われますが、この雑誌そのものの信頼性についての言及は見たことがないです。古い文献などを探す、最初の研究と言えそうなものは朝倉のものですが、彼は本来はジャーナリストと呼ぶべきでしょう。査読付き定期刊行物相当の信頼性があると言えるのは、細川の青弓社本掲載のものくらいでしょうか。それでも、堀内の記事を包括的に乗り超えているという自負はあります(執筆時の資料の量は違いますし、紙の百科事典には字数の制約もありますが)。この記事は、日本語版の質の向上に貢献してはいないでしょうか?
考古学の類推に数学の論理的厳密さを求めては、考古学は先に進めませんよね。資料の評価、その扱いというのは、分野によって異なる。それを受け入れて、それぞれに評価していくということをしなければ、ウィキペディアの質的な発展は望めません。くだらないことを、情報源があるなら書けばいい、と言っているのではないのです。--Ks aka 98 2010年11月4日 (木) 18:40 (UTC)[返信]
チンドン屋の質の高さはみとめます。研究者の少ない分野でも執筆者がしっかりしていれば質の高い記事を書けるという良い見本ですが、現状は安易な執筆者が多いのでハードルは固定したほうが良いとおもいますけどね。ま、それは置いといて、元市議さんのインタビューを出典として復活させても私は反対はしません(もともと削除したわけでもないし)。--パタゴニア 2010年11月5日 (金) 01:38 (UTC)[返信]
分野によって「信頼できる情報源」のハードルが高くなったり、低くなったりするのは理解できます。学術的な研究の蓄積がないところなどでは、「信頼できる情報源」の範囲も相当緩やかに考えるべきでしょう。ただ、超えるべきハードルが存在する(=信頼できる情報源が必要である)ということだけはきっちり押さえておくべきで、「ウィキペディアという百科事典は、信頼できる情報源だけで構成できるものではないです」のような言い方をされると、「何でもありなんだ」と誤解する人も出てきそうで、ちょっと怖い気がします。--Dwy 2010年11月5日 (金) 17:11 (UTC)[返信]
「ウィキペディアという百科事典は、信頼できる情報源だけで構成できるものではないです」から、いきなり「何でもありなんだ」と飛躍するのは余程の人だと思うね。いくらウィキペディアにはいろんな人が集まるといっても稀な例を心配するのはほどほどにしたほうがいいと思う。--Afaz 2010年11月6日 (土) 02:50 (UTC)[返信]
Dwyさんの言い方だと、結局「信頼できる情報源だけで構成しなくてはいけない。」(そうでなければ何でもありと誤解されてしまいかねない)になっていますよね。--Gyulfox 2010年11月6日 (土) 20:56 (UTC)[返信]
Wikipedia:検証可能性に「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。」とあります。Gyulfoxさんはwikipediaの基本くらい理解してから発言してください。--パタゴニア 2010年11月7日 (日) 03:46 (UTC)[返信]
コメント出典なしでかまわないとか、信頼できないソースをどんどん使ってかまわないと言ってるのではないので、誤解をしないで下さいね。 もちろん「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。」ということはまさにそうなのです。 Wikipedia:検証可能性のこの部分は良く知っております。 この文言の解釈は微妙なんですよ。 そこだけで判断するのではなくて、このページの上から下まで全体を読んで解釈しないと本当の意味が分かってきません。 ここで「べきである」という言葉は禁止ではなくて、ウィキペディアは、完全で、信頼の置ける百科事典を目指しているので、諸君は良い記事を書くためにはそのようにするべきだという編集態度を戒めている文章です。 ですからこの言葉をないがしろにした編集はいけません。 しかし読み進めて行くと、話題や状況によって、重要であるにもかかわらず、現状では「信頼性の乏しい情報源」1個にしか見つからない場合などの対処指示があって、重要か重要でないか再度確認した後に、重要であるならその情報が、くだんのものであることを明示せよとなっています。 また自主公表された情報源についての扱いについての文言も記載されています。 従って出典さえあれば重要でない価値のない情報でも、どんどん書いても構わないという解釈にはならないし、信頼性の乏しい情報源だからといって、重要性のあるなしの議論もろくすっぽしないで、機械的にどんどん削除して良いという解釈でもなく、結局現実のページに反映される結果として「信頼できる情報源だけで構成しなくてはいけない。」ということにはならないでしょうと言っているだけです。 もちろんこの理論を応用したルールの悪用は認めるわけにはいかないのは明らかですけれども。 --Gyulfox 2010年11月7日 (日) 05:35 (UTC)[返信]
屁理屈つけて出典を付けないことことを正当化しようとする人が多いからwikipedia:日本語版は質が低いのです。英語版を見習って欲しいものです。--パタゴニア 2010年11月7日 (日) 09:08 (UTC)[返信]
その点は同意ですね。 文章や情報がいくら濃くても、屁理屈つけて出典を付けないことことを正当化しようとする人の加筆は残念ながら0点といわざるを得ません。--Gyulfox 2010年11月7日 (日) 10:32 (UTC)[返信]
それから、どう見ても重要とは言えない情報を、いくら言い聞かせても重要重要と連呼する行為も、いつまでも納得しないに相当すると考えますね。--Gyulfox 2010年11月7日 (日) 10:38 (UTC)[返信]
なるほど、Wikipedia:検証可能性の「信頼性の乏しい情報源」のところをそういうふうに解釈されるわけですか。私にはあまり適切な解釈とは思えませんが、その部分の字面だけを見れば、そういうことになるのかもしれません。「信頼性の乏しい情報源」のところは、2006年4月に英語版のWikipedia:検証可能性が翻訳・導入されたときの記述が特に議論もされずにそのまま残っているわけですが[1]、現在の英語版では既にかなり違う記述になっています。ノートの議論を追ってみたところ、特にまとまったルール変更の議論があったわけではなく、当初から「信頼性の乏しい情報源はその情報源自身についての記事以外では使わない」というスタンスだったものが[2]、徐々に明確な文面になってきたという経緯のようです。少し時間ができたら、日本語版でも英語版の記述内容を取り込むように提案してみようかなと思ったりしています。--Dwy 2010年11月8日 (月) 13:17 (UTC)[返信]

思いがけず、いろいろとコメントを頂戴し、恐縮しております。お礼を申し上げるのが遅れましたことをお詫びいたします。 いずれにせよ、ここにこういう基準があるという単純なものではないということはよく分かりました。 皆さんのご意見を参考に、具体的なページへの対応をゆっくり考えたいと思います。 今後ともよろしくお願いいたします。--山田晴通 2010年11月12日 (金) 04:44 (UTC)[返信]