Category‐ノート:牧師の子弟

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「凝った定義」では?[編集]

以前から気になっていたのですが、このカテゴリはWikipedia:カテゴリの方針#カテゴリの内容でいう「凝った定義」に当たらないでしょうか? 親が牧師だった、だから何だというのか、その点に疑問を感じます。そのあたり、プロテスタントに限らずキリスト教に関わる人とそれ以外とで言い分が違うかも知れませんので、広くご意見をいただければと思います。--モンゴルの白い虎会話2014年10月26日 (日) 02:23 (UTC)[返信]

キリスト教にはとんと縁のない者です。少なくとも現状では本人に関係のない要素によるカテゴリとなっており、有用性に乏しいのではないでしょうか。「親が牧師で本人も牧師」に該当する人物のみに限定してそうではない人を除外し、カテゴリ名を「世襲の牧師」などとすればある程度の有用性はあるかもしれませんが、世襲政治家など需要の高そうなカテゴリも存在しないことを考えると、このようなカテゴリは作らない方が良いのではないかと思います。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 06:58 (UTC)[返信]
(追記)このカテゴリですが、Category:牧師およびCategory:プロテスタントの信者の下位カテゴリとなっており、どちらもその上位にCategory:キリスト教徒があることから、カテゴリの付与にあたってはプロジェクト:キリスト教/キリスト教徒カテゴリの概念、およびその下位カテゴリの概念・掲載・作成基準によって「当該教派の洗礼を受けていること(当該教派への帰正式・転籍等を含む)について、信頼のおける出典が脚注形式によって示されている場合にのみ、カテゴライズします。」「日本人もしくは日本在住の存命人物については、Wikipedia:存命人物の伝記#カテゴリの使用についてに従い、項目の存命人物が本人の意思によりその信仰を広く公表していることが確認することが出来て、信頼できる媒体による出典が脚注形式によって示されている場合にのみ、カテゴライズすることができます(信頼出来る媒体による出典が脚注形式で示されているが、日本人、もしくは日本在住の存命人物本人に、宗旨について広く公表する意思があるかどうか不明な場合、本文記載は可ですが、カテゴライズは不可となります。)」とかなり厳しい制限を受けます。現状では、この基準が守られているとは言えず、最低でも前述の「世襲の牧師」のように範囲を狭める必要があるでしょう。プロジェクト:キリスト教のノートで議論参加の呼びかけを行いました。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 07:24 (UTC)[返信]

コメント プロジェクト‐ノート:キリスト教での呼びかけから参りました。正直、こうしたカテゴリの存在を先程初めて知り、驚いております。箇条書きでコメントします。

  • 何でも英語版が基準になるとはしませんが(キリスト教関連カテゴリでも、ものによってはドイツ語版・ロシア語版の方が優れている事が多々あります)、聖公会プロテスタントの強い英米がバックにある英語版にすら無いカテゴリである事を考えても、有用性があるカテゴリとは思えません。
  • Claw of Slimeさん御指摘の、存命人物に関する指針(この指針策定には私も携わりました)に適合していないケースも多々ある問題もあります。
  • 「世襲政治家」という適切な例が出ましたが、世襲政治家カテゴリが仮に作られたら、おそらく「本人が公表を望むかどうか」「中立的観点(世襲政治家というのは通常、悪いイメージが持たれているため)」といった問題で議論が噴出すると思われます。「世襲牧師」「牧師の子弟」も、人によって「良い意味」「悪い意味」を与え得るものです。人によっては「世襲牧師(あるいはクリスチャンファミリー出身)」である事がウリになっているケースもあり、人によっては「世襲牧師(あるいはクリスチャンファミリー出身)」である事がマイナスイメージになっているケースもあります。ちょっと検索してみればすぐ分かりますが(本当はして欲しくありませんが)場合によってはネットでは「世襲牧師」は「世襲政治家」と同様、「叩き」「陰口」の原因になっているケースも少なくありません。つまり「単なる信者カテゴリ」以上に強い配慮が必要です
  • 補足ですが、Claw of Slimeさん御提案の「世襲牧師」カテゴリへの変更は、こうした事情から鑑みますと(Claw of Slimeさんの善意は疑いませんが)むしろ改悪であり、強く反対します。
  • この辺の御事情を、カテゴリ作成者でいらっしゃるMore blessingさんは御存知無いのでしょうか…?More blessingさんほどこの界隈に精通していらっしゃる方がこうしたカテゴリを作られた事に吃驚しました。もしかしたら、たまたまMore blessingさんが御存知の範囲では「牧師の子弟」というのは「良いイメージ」しか持たれて居ないのかもしれませんが、ネットで「世襲牧師」で検索をかけて見て下さい。すぐ御理解頂けると思います。
  • 以上を踏まえ、WP:BLPCATの「その人物の評価が低いと示唆するようなカテゴリをつける場合は注意が必要です。」に該当します。
  • ここまで申し上げれば、カテゴリ作成者のMore blessingさんにおかれましてはすぐお判り頂けたでしょう。作成者自ら削除提案をされますことを強くお勧め申し上げます。よろしくお願いします。--Kinno Angel会話2014年10月28日 (火) 14:41 (UTC)[返信]

    • コメント Kinno Angelさんコメントありがとうございました。私の「世襲の牧師」案も「牧師の子弟」よりはいくらかはマシだろう程度の次善案のつもりだったのですが、それ以上に扱いが厄介な代物のようですね。「世襲の牧師」案は取り下げ、削除の方向に同意とします。--Claw of Slime (talk) 2014年10月28日 (火) 15:04 (UTC)[返信]

コメント Kinno Angelさん、呼びかけて下さり、またいつも有益な指摘をして下さり、ありがとうございます。Claw of Slimeさん、有益なご指摘をありがとうございます。なるほど、そのような視点があったとは思いもつきませんでした。このような視点に気が付かせていただいたことに感謝します。

  • 私が生まれ育った環境では、「牧師の子弟」というのは、ごく自然に使われている言葉でした。Kinno Angelさんのご指摘のように、自分にとってはむしろ良い意味で使ってきた言葉ですので、いままでそのような別の角度からの視点について考えたことはありませんでした。
  • 確かに、政治家などは世襲ということが良くない意味でつかわれていると思います。しかし、それと対照的に牧師の子が教会を継ぐことは、むしろ模範的なこととして考えられており、「クリスチャン2世」や「2世牧師」などと言われ、信仰を子弟に継承することができた模範的な牧師として、むしろ良い意味でつかわれていました。「世襲牧師」というと、親の七光りで牧師になったり、一家で教会を私物化するような、悪い意味に聞こえますが。実際、そのような言葉が使われたことは聞いたことがありませんでした。(自分の知らないところではあるかもしれませんが)
  • 『日本キリスト教事典』(教文館:1988年)などを見ると、掲載されている人物の親が牧師である場合には必ず記されています。ここから見ても分かるように、キリスト教の文献では、親が牧師であるということは、ある意味で有益な情報と見なされていると思われました。モンゴルの白い虎さんがご指摘のように一般の人には無価値な情報かもしれませんが、クリスチャンにとっては模範的な信仰継承を成し遂げることができた人物の情報であり、クリスチャンにとっては、ここから学ぶことは多いと思います。
  • その有用性を考え、この「牧師の子弟」というカテゴリを立ち上げたのでしたが。一般的な認識というよりは、クリスチャンにとって重要な情報であるとの認識でしたので、このカテゴリに対して特に「凝った定義」という考えもありませんでした。許容範囲内の定義の範疇にあると思っていました。しかし、今回は一般の視点というのを考慮に入れる必要を忘れていました。その点では、POVが偏ってしまったことは否めません。
  • 牧師の子弟で存命人物である方々の扱いについても気を付けなければならないと思っていました。牧師の子弟は、基本的に『日本キリスト教事典』などの客観的な文献ではっきりと明記されている場合だけでした。明確な出典のない単なる噂や、個人的な研究による情報は載せないようにしたつもりです。また、基本的に、存命人物の場合には、親が牧師であることを公表して欲しいとは思わない人もいると思いますので、明確にそのこと公表している人物以外の存命人物の掲載はすべきではないと思っておりました。
  • ここまで自分の考えを述べてきましたが、もちろん私の考えに反対の人も多いと思います。もし、「牧師の子弟」というカテゴリによって、実際に牧師の子弟の方々が、悪いイメージを持たれてしまい、迷惑を被る人がいるならば、Kinno Angelさんがおっしゃるように、自らカテゴリの削除申請をしなければならないと思います。また、他の重要言語に存在しないということも考慮しなけばならないと思います。ウィキペディア全体の利益を考えれば、削除した方が良いとも思うのですが、この件についてもうしばらく考えたいと思いますので、しばらく時間をいただければと思います。--More blessing会話2014年10月28日 (火) 16:03 (UTC)[返信]

  • コメント 本人の意思とは関係無く、親によって分類するのは信教の自由(信仰を強制されない自由)の観点から問題があると思います。「プロテスタントの信者」のサブカテゴリになっていますが牧師の子弟には無神論者や他宗教の信者もいます。--221.94.14.18 2014年10月29日 (水) 10:01 (UTC)[返信]

  • そのご指摘はもっともです。確かに、Category:プロテスタントの信者の下位のカテゴリに持ってくるのは、自分でも迷いがありました。確かに存命の人物に限って言えば、本人の同意なしにそのカテゴリに分類することは、信教の自由に抵触する可能性はあるかもしれません。ですので、本人が公表されているということはっきり確認されていなければ、避けたほうがいいと自分も思います。--More blessing会話2014年10月29日 (水) 12:43 (UTC)[返信]

コメント

  • Claw of Slimeさんへ。「「世襲の牧師」案は取り下げ、削除の方向に同意とします。」のコメントに感謝申し上げます。
  • More blessingさんへ。
    • 親の七光りで牧師になったり、一家で教会を私物化するような、悪い意味に聞こえますが。実際、そのような言葉が使われたことは聞いたことがありませんでした。(自分の知らないところではあるかもしれませんが)More blessingさんは随分周りに恵まれているか、あるいは情報が遮断されているのか分かりませんが、私はそのような「批判」は「常識として」聞いて来ました。根拠を以下に述べます。
      • 「世襲牧師」検索結果からも明らかでしょう。それぞれ個別の指摘内容の真偽・妥当性は別として(名誉棄損に該当する中傷もあると思います)、「世襲牧師批判」と言うのには随分昔から根強いものがあるというのは事実です。
      • 特に聖務会院時代のロシア正教会の司祭職の在り方を「世襲」と呼んで批判するのは、日本のプロテスタント、宗教学者等に普通の傾向です。「ロシア正教会司祭の『世襲』は、信仰継承の模範」として評価するプロテスタントを、私は見た事がありません。当時、ベーリュスチンの著書にも明らかな通り、19世紀ロシア農村司祭の生活はおそろしく貧しくまた不遇であり、成り手が他に居なかった、という状況であったにも関わらず、なぜか「恵まれた司祭職が代々継承され」といったステレオタイプ的非難が普通です。
      • 実際、聖書においても世襲は特に肯定要件として挙げられておらず(テモテへの手紙一に「監督には監督の息子が、長老には長老の息子が望ましい」などと書いてありますか)、プロテスタントでも「世襲を肯定しない」は、本来スタンダードの筈です。表向きは。(御注意頂きたいのですが、「信仰の継承」と、「監督職・長老職・執事職の世襲」は、別物です。)
      • しかし、「牧師の子弟たる牧師」が持て囃され、「牧師の子弟たる牧師」は恵まれた大教会へ、そうでない牧師は貧しい小教会へ…という、日本社会の有り様を反映したとも言われる現実が(全てとは言いませんが)かなり広範にあるわけです。これに対する疑問の声を一切見聞きしたことがMore blessingさんに無いのだとすれば、それは見聞きする範囲が「持て囃す」側の方々に偏っているという危険性すらあるのではないでしょうか。少し不安になりました。厳しく不愉快な書き方になっているかもしれませんが、様々な声があるのだということを知って頂き、今後の為に御参考にして頂ければ幸甚です。
  • 上記は、More blessingさん向けのものであり、他の方には「「世襲牧師」検索結果からお分かりの通り、人によっては「世襲の政治家」と同様のマイナスイメージをもたれかねないカテゴリであり、扱いに危険」で終わる話です。このカテゴリに入れられたことで、「世襲牧師批判側」のネット上での攻撃に晒される危険性すらある事を考えれば、本当に即刻削除して頂きたい(また、信者では無い人がカテゴリに入る事も、「牧師の息子なのに信仰継承に失敗しているケースがあるじゃないか」などの論難理由となりかねず、そういう危険もあります)。1週間以内にMore blessingさんから削除依頼が出されなければ、私から削除依頼・議論を提起します。
  • 221.94.14.18さんの「信教の自由」という論拠には「?」です。属性の公表によって信教が決定されるわけはありません。実際ニーチェが本カテゴリに入っています。むしろ法的な面・一般的な権利の面を持ちだすのであれば、主にプライバシー権の問題でしょう。
  • もう一つの221.94.14.18さんの御指摘「牧師の子弟には無神論者や他宗教の信者もいます」は全くその通りです。
  • 第三者向けにまとめ
    • 「世襲政治家」と同様、扱いに困る(危険すらある)カテゴリ(他領域における「世襲カテゴリ」の変な前例になりかねない危険もある…例えば「政治家の子弟」「芸能人の子弟」
    • キリスト教においては、「牧師の子弟」は、(現実の問題はともかく)少なくとも表向きは有益な情報では無い(教役者のあり方を教えるテモテへの手紙にも「牧者の息子が牧者に相応しい」「牧者の息子が牧者に相応しいことが多い」などとは書いていない)。

以上です。--Kinno Angel会話2014年10月30日 (木) 14:35 (UTC)[返信]


Kinno Angelさん 本当にありがとうございます。文章を読んで実は、胸のつかえがとれたようにさえ感じました。この件に非常に丁寧に、お話下さったので、私も心を開いて本当のことを、お話したいと思います。

「特に聖務会院時代のロシア正教会の司祭職の在り方を「世襲」と呼んで批判するのは、日本のプロテスタント、宗教学者等に普通の傾向です。「ロシア正教会司祭の『世襲』は、信仰継承の模範」として評価するプロテスタントを、私は見た事がありません。」

とありましたが、確かに、プロテスタント学者はそのような批判をするかもしれません。私はプロテスタントの一員ですが、学者ではありません。自分はプロテスタントの学者のようにそのような批判をしようとは思いません。長いキリスト教の歴史の中ではそちら(ロシア正教会の祭司職あり方など)の方が圧倒的に多いし、たとえ「世襲的」な要素があったにせよ、次世代に信仰を継承していた伝統から、学ぶことは多いと考えています。(今はあまりに個人の意思を尊重しすぎることがかえって、信仰継承を妨げているようにさえ感じます。しかし、それは個人的意思の尊重が全く悪いという意味ではなく、「自由すぎること」が持つリスクという意味です。)

「それは見聞きする範囲が「持て囃す」側の方々に偏っているという危険性すらあるのではないでしょうか。」

というご指摘がありましたが、実を言うと私は、リアルの世界では、「牧師の子弟ではない牧師」をしています。そのような「牧師」であるためにKinno Angelさんがいわれるような、不利益を受けることもないわけではありませんでした。(もちろん「牧師の子弟」の方々の知り合いが数多くおり、その方々の、その立場でしか分からない苦労も重々知っておりますが……)

例えば、『日本キリスト教歴史大事典』などを拝見すると、「牧師の子」であることをしっかり明記しています。このように、日本のプロテスタント教会の状況を見ていると、今のプロテスタントには牧師の子弟が特別扱いされブランド化している一種の歪みの存在を感じます。(そのことで、苦しまれている「牧師の子弟」の大勢おられることもあることも見聞きすることですが、……)

そして、「世襲牧師」の検索を拝見してみました。確かに根拠の薄い誹謗中傷が多いように感じますが、的を得ている面も少しはあります。

私も心の中ではそういう批判的な思いを持ってきた者です。しかし、そういう批判を公に言うことがはばかられる立場にあるので、自分の心に嘘を付きながら「持て囃す」ことが多い立場にありました。実は、反省しています。本当のことを言うと、今まで、批判を聞いたことがないというのではなく、むしろ、あえて聞かないようにしてきたというのが本当です。

そのような疑問を持ちながら、自分の昔から研究したいと思っていたことは、「牧師の子弟」と「そうでない人は」どこが違うのかということです。出自は異なっても同じ主のしもべなのではないかと。そして、このような歪みの原因は何かということを知りたいと思ってきました。もっとも日本のプロテスタント教会はまだまだ発展途上です、これから良くしたいと願っています。そのために、日本の教会、牧師の記事を必死で投稿してきました。その中で、「牧師の子弟」をカテゴリで分類し研究したいという思いがあり、カテゴリを作成しました。「牧師の子弟」を研究することにより、日本のプロテスタントを客観的に見ることができ、歪みの本質が見えてくるのではないかと思いました。そして、多くの方々がそのことに問題意識をもって下さるのではという思いがありました。ウィキぺディアをきっかけに、このことの研究者が出て欲しいと願ってきました。

しかし実際には、「牧師の子弟」というカテゴリは、信仰継承という良い面だけではなく、ご指摘のように「ニーチェ」を挙げるまでもなく、信仰継承の失敗と負の面を明らかにしてしまうということも事実です。この点は自分自身も身につまされなければならないことで、その意味で、このカテゴリについて、正直言って迷いがあったことの事実です。本当にこれでいいのかという意見を聞きたいと思っていました。

このカテゴリがきっかけで、「世襲牧師」や「世襲○○」という前例を作ってしまうとしたら、ウィキペデアの質を低下させることになり、私の本意でありません。Kinno Angelさんのお言葉でそのことに気づかされました。この研究はウィキペデアではない別の形で行うこととして、自分がウィキペデアですることは、ウィキペデアの質の向上です。以上の理由で削除に同意します。近日中に削除の準備に取り掛かりたいと思います。ご協力お願いします。--More blessing会話2014年10月31日 (金) 16:44 (UTC)[返信]


More blessing様、大変真摯な御返信を頂きありがとうございます。

正直、私としてはMore blessingさんの御立場・お考えについて、完全に逆に想定しておりました。それゆえに厳し過ぎる書き方・言葉遣いになっていた面も多々あるかと存じます。心情面で穏やかならぬ、あるいは複雑な想いがお有りの事まで、全く想像出来ておりませんでした。

まず深くお詫び申し上げます、申し訳ありません。

当カテゴリの削除に動かれるとの御判断は正しいと思いますし、各種のリスクを鑑みても、削除が必要との私の考えは変わりません。

一方で、真摯な研究の動機についても拝読しました。そのような動機・目標がお有りでしたら、大変有益な研究になると思いますし、また今後More blessingさんが教会に関わられる場面に於いても、真に有益な研究になることでしょう。私個人としても、「牧師の子弟」(実は「牧師の夫人」もです)への「礼賛」「批判」の極端な表れの存在は、今の日本のプロテスタントの実情を考える際に避けて通れない現実であるとも思っており、非常に興味があります。jawp以外の場で、ブログないし書籍など、何らかの形で御考察が発表される事を楽しみにしたいと思います。--Kinno Angel会話2014年11月2日 (日) 12:08 (UTC)[返信]

大変丁寧なお答えをありがとうございます。jawpの質の向上のために有益な議論ができたことを感謝します。「牧師の子弟」の問題は、jawp以外の場所で、日本のキリスト教会の質の向上を目指して取り組んで行きたいと思います。--More blessing会話2014年11月2日 (日) 22:49 (UTC)[返信]