島田清田

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島田清田
時代 平安時代初期
生誕 宝亀10年(779年
死没 斉衡2年9月18日855年11月1日
官位 従五位上伊賀守
主君 嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 島田朝臣
父母 父:島田村作
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島田 清田(しまだ の きよた)は、平安時代初期の貴族のち朝臣正六位上・島田村作の子。孫に島田忠臣良臣がいる。官位従五位上伊賀守

経歴

尾張国の地方豪族の出と伝わる。

若くして大学寮に入学し経書史書を広く学ぶ[1]文章生試に及第したのち、大学少属・大宰少典内蔵少属を歴任。この間、弘仁4年(813年)には多人長による『日本書紀』の講書を受けた一人として名を連ねている[2]弘仁14年(823年)朝臣姓に改姓する。

淳和朝に入ると少外記次いで大外記を務める傍ら、勘解由判官下野権掾を兼帯、天長6年(829年)には正六位上から従五位下に昇叙された。またこの間、『日本後紀』の編纂にも参画している。仁明朝では大外記・宮内少輔治部少輔・伊賀守を歴任した。文徳朝仁寿元年(851年)従五位上に至る。

斉衡2年(855年)9月18日卒去。享年77。最終官位は散位従五位上。

官歴

六国史』による。

脚注

  1. ^ 日本文徳天皇実録』斉衡2年9月18日条
  2. ^ 『日本書紀私記』
  3. ^ a b c d 『外記補任』