コンテンツにスキップ

ゾフィー・フォン・ザクセン=ラウエンブルク (ユーリヒ=ベルク公妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年5月5日 (金) 08:36; Jun324 (会話 | 投稿記録) による版 (en:Gerhard VII, Duke of Jülich-Berg (2021年5月2日 (日) 15:22) より生年を補う。)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ゾフィー・フォン・ザクセン=ラウエンブルク
Sophie von Sachsen-Lauenburg

出生 1428年
死去 1473年9月9日
配偶者 ユーリヒ=ベルク公ゲルハルト
子女 ヴィルヘルム
アンナ
アドルフ
ゲルハルト
家名 アスカーニエン家
父親 ザクセン=ラウエンブルク公ベルンハルト2世
母親 アーデルハイト・フォン・ポンメルン
テンプレートを表示
ゾフィーの紋章(聖フーベルトゥス騎士団の紋章一覧)

ゾフィー・フォン・ザクセン=ラウエンブルク(Sophie von Sachsen-Lauenburg, 1428年 - 1473年9月9日)は、ユーリヒベルクゲルハルトの妃。1456年から1473年までユーリヒ=ベルク公国の摂政をつとめた。

生涯

[編集]

ゾフィーはザクセン=ラウエンブルク公ベルンハルト2世と、ポメラニア公ボギスラフ8世の娘アーデルハイトの娘である。

1444年にユーリヒベルク公・ラーヴェンスベルク伯ゲルハルトと結婚した。1456年ごろにゲルハルトは精神錯乱に陥り、ゾフィーは長男ヴィルヘルムのため公国の統治を引き継いだ。

トンブルク領主フリードリヒ・フォン・ゾンブレフがゾフィーを中傷した後、1470年にゾフィーの息子らはトンブルク城を包囲し征服した。包囲中にライヒェンシュタイン修道院が火事になり、ゾフィーはその後同修道院を再建した。

子女

[編集]
  • ヴィルヘルム(1455年 - 1511年) - ユーリヒ=ベルク公
  • アンナ - メールス=ザールヴェルデン伯ヨハン(1507年没)と結婚
  • アドルフ(1458年8月1日 - 1473年9月19日)
  • ゲルハルト - 早世

参考文献

[編集]
  • Woldemar Harleß (1878). "Gerhard der zweite Herzog von Jülich-Berg". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 8. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 741–743.
  • Gisela Meyer: Die Familie von Palant im Mittelalter, Vandenhoeck & Ruprecht, 2004, p. 370
  • Historischer Verein für den Niederrhein, insbesondere die Alte Erzdiözese Köln: Annalen des Historischen Vereins für den Niederrhein, insbesondere die Alte Erzdiözese Köln, J. P. Bachem, Köln, 1856, p. 65 (Digitalisat)