袁乃寛
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袁乃寛 | |
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『改訂 現代支那人名鑑』(1928年) | |
プロフィール | |
出生: | 1867年(清同治6年)[1] |
死去: | 1946年(民国35年)? |
出身地: | 清河南省汝寧府正陽県[2] |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 袁乃寛 |
簡体字: | 袁乃宽 |
拼音: | Yuán Nǎikuān |
ラテン字: | Yüan Nai-k'uan |
和名表記: | えん ないかん |
発音転記: | ユエン ナイクワン |
袁 乃寛(えん ないかん/えん だいかん)は、清末民初の政治家。字は紹明。袁世凱とは同姓で出身地も同一ないしは近県だが、血縁関係は無い。
事績
1893年(光緒19年)、袁乃寛は、袁世凱に随従して朝鮮に赴任し、文書管理を担当した。このとき両者は、連宗[3]として、互いに叔侄を称した。1895年(光緒21年)、やはり袁世凱に随従して帰国し、以後、新建陸軍で糧秣を担当する部署に就いた。以後、天津県知事、拱衛軍軍需総長、鑲紅旗蒙古副都統、籌備煤油坐弁等を歴任した。[4][5]
中華民国成立後の1913年(民国2年)、陸軍中将位を授与された。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位をもくろむと、袁乃寛は籌安会会員となってこれを支持し、大典籌備処庶務主任をつとめた。1917年(民国6年)7月、張勲復辟に参加したが、失敗後に逃亡を図り、捕縛されてしまう。しかし、段祺瑞により特赦された。1923年(民国12年)、曹錕の賄選に加担する。同年9月、高凌霨代理内閣において署理農商総長に任命され、翌年1月までその地位にあった。[4][5]
1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、袁乃寛も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[6]。ただし、袁が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。
『河南省志 人物志』によると、北平に隠居後、1946年(民国35年)に病没したとされる。ところが徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』によると、1947年(民国36年)に耆英会(老人会)に参加したとある(没年については不詳としている)。
注
参考文献
- 河南地方志編纂委員会編『河南省志 人物志』河南人民出版社、1995年。ISBN 7-215-03841-6。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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