米村
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概要
昭和4年、九段で「三楽」として開業。武者小路実篤、林武画伯、宇野浩二や久保田万太郎ら小説家など、文人墨客に愛される[1]。昭和24年、浜離宮の入り口付近に移り、川に面した見越の松に黒板塀という料亭らしい粋な造りで「米村」を営業。昭和36年、東京オリンピックの開催による高速道路整備の為、現在の銀座7丁目に移転。新橋料亭としていち早くビルへの建て替えを行い、カウンター席や地下のバーなど進取の気風を体現する。老朽化により昭和58年に再度建て替え、今の店構えに至る[2]。
二代目 藤野雅彦
東京・銀座で料亭を営むかたわら、都心に残る花街文化の活性化に努めた。全国の花街の料亭・芸妓衆でつくる日本料理文化振興協会の理事長として、芸妓派遣を通じた海外発信などに取り組み、農林水産省検討会の委員として、和食の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産登録にも尽力した[3]。
特徴
- 「三楽」開店祝いに贈られた屏風には伊東深水の絵が貼られ「昭和4年1月」と書かれている[1]。
- 米村の前身「三楽」の初代女将、八重は宇野浩二の小説「思ひ川」のモデルになっている[1]。
- 東京の料理屋としては数少ない「江戸割烹」の看板を掲げている店。江戸後期に数多く出版された料理書の中から、江戸時代から伝わる料理に新たな解釈を加え、東京に集まる様々な各地の食材を用い、現代にアレンジした「新・江戸料理」を打ち出す[2]。
- 初代料理長考案の「鯛焼飯」は米村名物となっている。
- 各部屋の名を記した陶板は宇野浩二と親しい洋画家、鍋井克之によるもの[1]。
- 毎年五月に新橋演舞場で開催される東をどりでは米村を含む新橋六料亭による酒の肴、卵焼き、松花堂弁当などを愉しむことができる[4]。
参考文献
- 芸術新聞社:「アート トップ」(1971/11/1)東銀座「米村」 飯塚小玕齋 なじみの店
- サンケイスポーツ:(1984/1/26) イキな遊び大1枚 新橋・料亭「米村」
- 日経BP:「日経レストラン 1990年12月5日号」 繁盛店レポート 東京 サラリーマンが接待伝票を切れる料亭に挑戦
- 世界文化社:「ミス家庭画報 1991年3月号」 今からの雛祭り
- ハースト婦人画報社:「婦人画報 1991年8月号」 座敷の芸をカウンターで楽しむ新しき趣向
- ハースト婦人画報社:「婦人画報 1994年12月号」 東京 米村
- 産経新聞: (1995/10/6) 戦後史開封 銀座
- ハースト婦人画報社:「婦人画報 1995年10月16日号」旬の美味があれこれ盛り沢山。
- 茜新社:「男の食彩 1995年」 今に生きる江戸の味「染飯」
- 講談社:「グラッチア 1996年6月号」 東京 東銀座
- 世界文化社:「MEN‘S EX 2000年10月号」 一品料理が旨い割烹
- スタンダードマガジン:「マンスリーエム 2001年1月号」 銀座 「米村」
- 「MILES 2002年4月号」 美人芸妓と魅惑のお座敷
脚注
出典
- ^ a b c d 『Pen (No.313 2012)』阪急コミュニケーションズ、2012年5月1日、52-55頁。
- ^ a b 『全国芽生会連合会全国大会 東京大会2015大会記念誌』東京日本料理業芽生会、2016年12月1日、82頁。
- ^ “[お偲び] 藤野雅彦 氏(料亭「米村」会長、日本料理文化振興協会理事長)”. Sogi.jpメモリアル. 2022年11月4日閲覧。
- ^ “東をどり”. 東京新橋組合. 2022年11月4日閲覧。