ゾフィア (バル女伯)
ゾフィア・フォン・バル Sophia von Bar | |
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バル女伯 | |
在位 | 1033年 - 1093年 |
出生 |
1018年ごろ |
死去 |
1093年6月21日 |
配偶者 | モンベリアル伯ルイ・ド・ムッソン |
子女 |
ティエリ1世 ブルノ ルイ フレデリック ソフィー ベアトリス マティルド |
家名 | アルデンヌ家 |
父親 | 上ロートリンゲン公フリードリヒ2世 |
母親 | マティルデ・フォン・シュヴァーベン |
ゾフィア・フォン・バル(ドイツ語:Sophia von Bar, 1018年ごろ - 1093年6月21日)またはソフィー・ド・バル(フランス語:Sophie de Bar)は、バル女伯(在位:1033年 - 1093年)。
生涯
ゾフィアはバル伯・上ロートリンゲン公フリードリヒ2世とマティルデ・フォン・シュヴァーベンの娘である。1033年に父が死去した際に相続争いに勝利し[1]、ルッツェルブールとバル=ル=デュックの町を手に入れた。1038年にスカルポン家のモンベリアル伯・アルトキルシュ伯およびフェレット伯ルイ・ド・ムッソンと結婚し、2人の間には7子が生まれた。トスカーナ女伯マティルデ・ディ・カノッサは母方の従姉妹にあたる。
1076年より後に、ゾフィアはアマンスの城に聖マリア教会を完成させた。この教会は元々ゾフィアの祖父ディートリヒ1世が着工したものであった[2][3]。1088年、ゾフィアはライトゥル=ス=アマンスにサン=ミエル修道院の従属修道院を創建し、この修道院は1592年まで存続した[4]。これにはトゥール司教の協力があった[5]。一方で、これまではドマルタン=ス=アマンスに従属していたラトル=ス=アマンスの教会をサン=ミエル修道院の従属にしようとしたゾフィアは、1076年にサン=ミエル修道院長との間でもめていた。1076年に修道院長に選出されたジークフリートは始め、旧習に従いゾフィアより叙任されていたが、後にローマ教皇グレゴリウス7世が就任した際に教会法との相違を悔い改め、グレゴリウス7世に修道院長の杖を渡したが(叙任権闘争)、1147年の記録によるとジークフリートは赦しが与えられた後に教皇から杖が返されたという[6]。ゾフィアは自身の庇護下にあったサン=ミエル修道院を守るため、修道院に要塞を築いた。
子女
- ティエリー1世(1045年 - 1105年) - モンベリアル伯、バル伯、ムッソン伯
- ブルノ
- ルイ
- フレデリック(1092年没) - シュズ侯
- ソフィー - フローブルク伯フォルマルと結婚
- ベアトリス(1092年没) - ケルンテン公ベルトルト2世と結婚
- マティルド - ダグスブルク伯フーゴ8世・フォン・エギスハイム(1089年没)と結婚
脚注
- ^ Johannes Mötsch: Genealogie der Grafen von Sponheim. In: Jahrbuch für westdeutsche Landesgeschichte. Bd. 13, 1987, ISSN 0170-2025, pp. 63–17, p. 115.
- ^ Norbert Müller-Dietrich: Die romanische Skulptur in Lothringen (= Kunstwissenschaftliche Studien. 41, ISSN 0170-9186). Deutscher Kunstverlag, München 1968.
- ^ Georges Durand: Églises romanes des Vosges (= Revue de l’Art Chrétien. 2, ZDB-ID 208615-3). E. Champion, Paris 1913, p. 101.
- ^ Peter Volkelt, Horst van Hees: Lothringen, Ardennen, Ostchampagne. Kunstdenkmäler und Museen (= Reclams Kunstführer Frankreich. 3). Reclam, Stuttgart 1983, ISBN 3-15-010319-3, p. 195.
- ^ Anja Gillen: Saint-Mihiel im hohen und späten Mittelalter. Studien zu Abtei, Stadt und Landesherrschaft im Westen des Reiches (= Trierer historische Forschungen. Bd. 52). Kliomedia, Trier 2003, ISBN 3-89890-065-7, p. 127, (Zugleich: Trier, Universität, Dissertation, 2001).
- ^ Anja Gillen: Saint-Mihiel im hohen und späten Mittelalter. Studien zu Abtei, Stadt und Landesherrschaft im Westen des Reiches (= Trierer historische Forschungen. Bd. 52). Kliomedia, Trier 2003, ISBN 3-89890-065-7, pp. 68, 161, (Zugleich: Trier, Universität, Dissertation, 2001).
参考文献
- Eduard Hlawitschka: War die oberlothringische Herzogstochter Sophie von Bar und Mousson eine Nachkommin der Kaiserin Theophanu? – Ein Beitrag zum Thema „Mittelalterliche Namengebung und moderne Ahnenforschung“. In: Schriften der Sudetendeutschen Akademie der Wissenschaften und Künste. Bd. 23, 2002, ZDB-ID 584213-x, pp. 83–102.
- Josef Heinzelmann: Patronymie oder Patrinonymie bei Sophia von Bar und Mousson und bei König Zwentibold. In: Zeitschrift für die Geschichte des Oberrheins. Bd. 154, 2006, pp. 43–76.
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