最上義秋
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時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 文明12年2月26日(1480年4月6日) |
戒名 | 隣江院殿松巌芳公大居士 |
墓所 | 山形県山形市錦町の松岩寺 |
官位 | 右京大夫 |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 最上氏 |
父母 | 父:最上満家[1]?、最上義春? |
子 | 養子:満氏 |
最上 義秋(もがみ よしあき)は、室町時代中期から戦国時代の出羽国の武将・大名で山形城主。最上氏第6代当主で守護大名に準ずる立場であり、羽州探題と思われる。
生涯
当時の出羽国、特に最上氏については不明な点が多く、未だ研究中の段階である。義秋は生年が不明であるだけでなく、その父も不明である。4代当主満家の三男とする説[1]と5代当主義春の嫡男とする説がある。前者の三男とすれば兄に頼宗・義春がいたことになる。諱の「義」の字は足利将軍家からの偏諱と考えられるが、どの将軍によるものかは不明。文明6年(1474年)、応仁の乱の最中に先代の義春の死去により家督を継ぐ。応仁の乱の一因として斯波義廉と斯波義敏の争いがあり、同族である最上氏は何らかの形で関与したと思われるが、その形跡はない。家督相続の6年後に死去した。弟(または息子)[2]の義総は成沢氏に、義旦は杉山氏にそれぞれ分封された。本来はこのどちらかが家督を継ぐべきであったが、なぜか中野満基の子の満氏が家督を継いだ。満家の嫡男・頼宗の死と並び、何らかの政変があったとも考えられている。
脚注
参考文献
- 七宮涬三『陸奥・出羽 斯波・最上一族』新人物往来社、2005年
- 『奥羽斯波氏諸列記』