コンテンツにスキップ

山代氏益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年2月24日 (木) 16:17; 2405:6580:2a80:c00:1ce9:7b51:5884:fa24 (会話) による版 (経歴)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
 
山代氏益
時代 平安時代初期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位下越中介
主君 仁明天皇文徳天皇
氏族 山代宿禰
父母 父:山代国雄
宗雄、豊雄、宮長、長雄
テンプレートを表示

山代 氏益(やましろ の うじます)は、平安時代初期の貴族宿禰少外記・山代国雄の子。官位従五位下越中介

経歴

[編集]

第19次遣唐使の録事に命ぜられて、承和5年(838年)に渡した。翌承和6年(839年)往路に利用した三船が不十分なものであったことから、一行は楚州で新羅船9隻を雇って新羅の南岸沿いの航路を利用し帰国の途に就いた。8月に帰朝した他船に遅れて、10月になって氏益は筑前国博多津に帰着した[1]。帰国後、右少史・左少史・少外記・大外記と文書作成を掌る官職を歴任する一方、承和8年(841年)には式部大丞小野恒柯と共に存問渤海客使として渤海使の応接を担当した。

承和10年(843年従五位下山城介に叙任されると、仁明朝後半は地方官を務めた。嘉祥2年(849年勘解由次官として京官に復し、仁明朝末の嘉祥3年(850年内位の従五位下に叙せられた。文徳朝仁寿2年(852年)越中介に任ぜられたことにより、再び地方官に転じている。

官歴

[編集]

六国史』による。

系譜

[編集]
  • 父:山代国雄[3]
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:山代宗雄[3]
    • 男子:山代豊雄[3]
    • 男子:山代宮長[3]
    • 男子:山代長雄[3]

脚注

[編集]
  1. ^ 『続日本後紀』承和6年10月9日条
  2. ^ a b c d 『外記補任』
  3. ^ a b c d e 鈴木真年『百家系図』巻59,山背忌寸,巻63,鷹羽

参考文献

[編集]