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円珠尼

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円珠尼(えんじゅに、天文12年(1543年)ごろ - 天正10年(1582年))は、戦国時代の女流歌人沼田氏の家臣である上野国川田城主・川田光清の娘とされる。幼名は小柳。

初め、沼田氏に出仕して沼田顕泰の妻の侍女となった。和歌に優れ、18歳の時に子持山を詠んだ「子持山 もみぢを分けて 入る月は 錦に包む 鏡なりけり」という歌が評判となって京都の正親町天皇にも達し、「上野の 沼田の里に 円かなる 珠のありとは 誰か知らまし」という歌を贈られた。彼女はその歌にちなみ「円珠」と称されるようになった。

19歳で長野業政に仕えていた信濃国の陶田弥兵衛に嫁ぐが、夫が円珠を寵愛して国元の母親を顧みなくなった。円珠は夫を諌めたものの効果はなく、意を決して出家して川田に戻ってしまい、夫はそれを悔やんで業政の下を辞して帰郷した。

以降は、父が建立した薬師堂で和歌を詠んで生活していたが、沼田氏真田氏に滅ぼされ、武田氏の滅亡後に真田昌幸滝川一益に降ると、一益は彼女を和歌の師として厩橋城に召し出した。

ところが、本能寺の変後の神流川の戦いにて滝川勢が後北条氏に敗れて撤退した際、病気で倒れていた彼女は放置されてしまった。合戦後、一益に代わり厩橋城に入った北条氏邦も彼女の名声を知っていたため、円珠尼は直ちに川田に送り届けられたが、同年のうちに薬師堂で40歳ぐらいで病死したという。後に薬師堂は遷流寺に統合されたものの、流泉院殿月錦円珠大法尼の法号を贈り、彼女の木像を安置して菩提を弔ったと伝えられている。

参考文献

  • 芳賀登・一番ヶ瀬康子・中嶌邦・祖田浩一編『日本女性人名辞典』日本図書センター、1993年 ISBN 4-8205-7128-1