荒尾善次
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 永正5年(1508年) |
死没 | 天正18年12月13日(1591年1月8日) |
改名 | 善次、閑斎(号) |
別名 | 作右衛門(通称) |
戒名 | 道圓[1] |
官位 | 美作守 |
主君 | 織田信長 |
氏族 | 佐治氏、荒尾氏 |
父母 | 佐治為貞、荒尾空善 |
妻 | 荒尾空善娘、水野信元娘[2] |
子 | 善久、善応院、成房、隆重 |
荒尾 善次(あらお よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。姫路藩初代藩主となった池田輝政の外祖父。
略歴
永正5年(1508年)、尾張国知多郡大野城主・佐治為貞の子として誕生。
今川義元の尾張侵攻により戦死した同知多郡木田城主・荒尾小太郎空善の名跡を継承し荒尾姓を名乗ったという。織田信長に仕えて荒尾村[3]を領し、今川勢と対峙して木田城を守った。しかし弘治元年(1555年)に始まった義元の尾張進攻によって、同3年には知多の諸勢の多くが今川方に投降したと言われており[4]、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの際には、善次も同様の立場に置かれていたと考えられる[5]。そのため桶狭間の戦い以後は隠居した。
系譜