25・デ・マヨ (1860年代頃の船)

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25・デ・マヨ (25 de Mayo) はアルゼンチン海軍の船。鉄製船体の外輪船[1]パラグアイ戦争でパラグアイに捕獲されて使用されている。

排水量110トン、長さ37.0m、幅5.0m、深さ4.75m、平均吃水1.8m[1]。蒸気機関1基搭載で、出力28馬力[1]。帆装は二檣スクーナー[1]。兵装は1859年時点では12ポンド砲9門、1860年時点では16ポンド砲6門と6ポンド砲1門[1]

「25・デ・マヨ」はアルゼンチンの資料で、1859年のブエノスアイレス州戦隊の武装汽船として最初に登場する[1]

1965年4月13日、「25・デ・マヨ」と「グアレグアイ」が派遣されていたコリエンテスがパラグアイの「タクアリ」、「Ygurey」、「パラグアリ」、「Marqués de Olinda」、「Yporà」による攻撃を受けた際、2隻は捕獲された[2]。パラグアイ艦隊が港へ向かうという状況で「25・デ・マヨ」艦長は非常措置をとらず、砲からは人が離れた[3]。結果、「Ygurey」と「Yporà」に左右につかれた[3]。パラグアイの小銃兵が射撃し、アルゼンチン側も反撃を試みるもすぐに制圧された[3]。艦長以下49名が捕虜となり、28名が死亡[3]。6名のみが逃げられた[1]

「25・デ・マヨ」は「グアレグアイ」、「Igurei(またはYgurey[4])」は1866年2月20日にPaso de la Patriaで1000名の軍を乗せると、パラナ川沿いのItatíへ向かった[5]。同地の敵軍は撤退し、パラグアイ軍は町と宿営地を略奪、破壊[5]。その後、「グアレグアイ」を残し、2隻はHumaitáに戻った[5]

1867年10月下旬、ブラジル軍はTayí攻略に向かう[6]。10月30日、「25・デ・マヨ」と「Olimpo」はブラジル軍が派遣した偵察隊を攻撃して追い払った[7]。11月2日、Tayíでの戦闘で「25・デ・マヨ」は大破した[1]

1869年1月、アスンシオンが占領される[8]。同地で「25・デ・マヨ」は発見され、同年3月アルゼンチン海軍に戻った[9]。「25・デ・マヨ」はブエノスアイレスへ曳航され、そこで状態劣悪のためハルクとしても使用できないとされた[1]。「25.デ・マヨ」のその後は不明である[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j "The Paraguayan Navy: Past and Present", p. 95
  2. ^ "THE PARAGUAYAN NAVY PAST AND PRESENT: PART II", p. 177, Whigham, The Paraguayan War, p. 260
  3. ^ a b c d Whigham, The Paraguayan War, p. 261
  4. ^ Road to Armageddon, p. 25
  5. ^ a b c Hooker. The Paraguayan War, p. 50
  6. ^ Road to Armageddon, p. 195
  7. ^ Road to Armageddon, p. 196
  8. ^ "The Paraguayan Navy: Past and Present", p. 95, "THE PARAGUAYAN NAVY PAST AND PRESENT: PART II", p. 192
  9. ^ "THE PARAGUAYAN NAVY PAST AND PRESENT: PART II", p. 192

参考文献[編集]