調略

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調略(ちょうりゃく)は、主に政治的工作の総称を指す。

概要[編集]

日本歴史における中世室町時代以降、複雑化した大小の豪族大名小名)たちの利害関係を背景に、互いに政治的および政略的に影響を及ぼす工作、諜報活動が増加した。具体的には、敵方の人材の引き抜き、有事における内応誘降謀反離反などを誘発させる工作活動が主である。応仁の乱以後、安土桃山時代関ヶ原の戦い前後まで、それぞれの大名たちの戦略における一大要素をなした。

実例[編集]

織田家[編集]

木下藤吉郎(豊臣秀吉
美濃国工作において、当時斎藤家の戦力的中心だった西美濃三人衆稲葉良通氏家直元安藤守就)を織田家に寝返らせることに成功する。この功により、当時難攻不落といわれた稲葉山城(現・岐阜城とほぼ同位置にあった城館)を陥落させ、斎藤家を滅亡に追い込む。
黒田孝高
織田家の播磨国を制圧前後、西隣りの備前国美作国を領し毛利氏に属していた宇喜多氏を織田氏に鞍替えさせることに成功している。宇喜多氏はその後の織田氏の備中国攻めに約1万の兵を動員し、秀吉の備中高松城攻めをおおいに助けた。また、豊臣秀吉の九州征伐の際、事前に北九州土豪たちを懐柔し、本軍到着後の九州攻略を容易にした。

武田家[編集]

真田幸綱(幸隆)
佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を臣従させる。『高白斎記』によれば、天文19年(1550年)9月に村上義清との砥石城をめぐる戦いでは、村上氏方の国衆である清野氏寺尾氏への調略を行う。この合戦で武田方は砥石城を攻略できず、大敗した(砥石崩れ)。同じく『高白斎記』によれば、天文20年(1551年)5月26日に幸綱は砥石城を攻略している。『高白斎記』では幸綱の砥石城攻略を「乗取」と記しており、調略が行われていたと考えられている。

徳川家[編集]

主に関ヶ原の戦いにおいて、黒田長政が中心となり事前に西軍の諸将の内応、寝返り工作を行った。その結果東軍の大勝に終わる。

※寝返った主な武将

参考文献[編集]