索勛

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索 勛(さく くん、? - 894年)は、末の帰義軍節度使であり、張議潮の娘婿である。

大順元年(890年)2月22日、索勛は政変を起こし、張議潮の甥である帰義軍節度使張淮深夫妻と六人の子を殺し[1]、張議潮の実子の張淮鼎を立てて帰義軍節度使とした[2]。2年後、張淮鼎が死ぬと、その子の張承奉を立てずに、自立して帰義軍節度使になった[3]。これが、張議潮の第十四女で李明振の妻の張氏(索勛の義理の姉妹)の不満を引き起こし、乾寧元年(894年)、三人の子を派遣して、索勛を殺して、張承奉を立てて帰義軍節度使とした。

学者によっては、索勛は張淮深を殺していないとする。

  1. 索勛は、張淮深を殺しておらず、彼の死は、派兵して朱玫李熅を皇帝にしたのに追随したからである[4]
  2. 張議潮の実子の張淮鼎が張淮深を殺したのであって、索・李両家には関係がない[5]
  3. 張淮深の子の張延興・張延嗣が、張淮深と異母兄弟の張延暉・張延礼の六兄弟と張淮深夫人の潁川陳氏を殺した。しかるのちに、張淮深の従兄弟である張淮鼎を立てた[6]
  4. 帰義軍内部で、張文徹を中心とした反対派が、張淮深とその一家を殺して、政権を奪おうと企画したが、李明振の妻の張氏(張議潮の第十四女)が反対派を除き、張承奉を立てた[7]

参考文献[編集]

  1. ^ 羅振玉. 『補唐書張議潮伝』 
  2. ^ 栄新江. 『晩唐帰義軍李氏家族執政史探微』 
  3. ^ 向達. 『補唐書張議潮伝補正』 
  4. ^ 孫修身. 『張淮深之死再議』 
  5. ^ 李永寧. 『堅牛作孽、君主見欺』 
  6. ^ 鄧文寛. 『也談張淮深之死』 
  7. ^ 銭伯泉. 『為索勛簒権翻案』