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  • カルルク(古代テュルク語:、英: Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄・葛邏禄・葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラビア語では قارلوق (Qarluq)と記された。…
    16キロバイト (2,360 語) - 2023年11月2日 (木) 13:47
  • 諸蕃に奔走することとなり、宰相の馺職(そうしょく)は外甥の厖特勤(ほうテギン)および男鹿・遏粉ら兄弟5人、計15部を擁して西の葛邏禄(カルルク、Qarluq)に奔走し、一部は吐蕃へ、一部は安西(亀茲)へ投じた。また可汗の牙帳近くの13部は、烏介特勤(ウゲ・テギン、Ügä Tägin)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。…
    3キロバイト (568 語) - 2024年1月13日 (土) 17:16
  • 西突厥のサムネイル
    628年)の時に可汗庭を石国の北の千泉(ビルキー birkī:現ジャンブール州メルキ)に移した。 構成民部族は多種で、咄陸(都陸、テュルク:Türk)・弩失畢・葛邏禄(カルルク:Qarluq)・処月・処密・哥舒などの諸種が雑居し、鉄勒(オグズ:Oγuz)・亀茲・焉耆(カラシャール)・伊吾(ハミ)などの西域諸国を属国とした。 沙鉢羅咥利失可汗(在位:634年…
    29キロバイト (5,159 語) - 2023年8月3日 (木) 07:49
  • 薛延陀のサムネイル
    そうと考えた。この事を察知した阿史那斛勃は旧地(金山の北)に逃げ帰り、その地で勝兵3万人を擁し、自ら乙注車鼻可汗と称した。西は葛邏禄(カルルク Qarluq)族、北は結骨(キルギス Qïrqïz)族と接し、車鼻可汗に附いた。 貞観19年(645年)、夷男が病死すると、夷男の少子である肆葉護の抜灼はその兄である突利失可汗(テリス・カガン…
    14キロバイト (2,803 語) - 2023年2月19日 (日) 06:30
  • スルハンダリヤ州のサムネイル
    Qumqo`rg`on 8 ムズラバート地区 Muzrabot ハルカバード Khalkobod 9 アルティンサイ地区 Oltinsoy カルルク Qarluq 10 サリアシヤ地区 Sariosiyo サリアシヤ Sariosiyo 11 シェラバード地区 Sherobod シェラバード Sherobod…
    7キロバイト (200 語) - 2021年9月25日 (土) 23:05