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  • 書院造のサムネイル
    書院造 (カテゴリ 日本住宅歴史)
    書院造(しょいんづくり)は、日本室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物中心にした武家住宅形式ことで、書院とは書斎を兼ねた居間中国風呼称である。その後和風住宅は、書院造強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。…
    11キロバイト (1,849 語) - 2024年5月9日 (木) 11:30
  • 日本においては、仏教僧侶の献立(特に精進料理)や、平安時代貴族の酒宴における大饗料理、さらに大饗料理系譜を受け継いで武士社会における酒宴において儀式的な料理となった本膳料理などが成立した。本膳料理は客個別卓上に膳部が配膳される銘々膳で、一汁三菜ように「汁」と「菜」で構成され、後々日本人
    20キロバイト (3,115 語) - 2024年3月21日 (木) 11:53
  • 黒田節のサムネイル
    黒田節 (カテゴリ 福岡県の酒)
    黒田節(くろだぶし)は、福岡県福岡市民謡。「〽酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひもといち) この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真 黒田武士歌詞で有名。酒宴などでよく謡われる定番唄である。なお、初期にレコード販売された頃は「黒田武士」と表記された。 筑前今様と呼ばれた福岡藩武士
    8キロバイト (1,364 語) - 2024年4月30日 (火) 13:30
  • 北条貞時のサムネイル
    北条貞時 (カテゴリ 13世紀日本政治家)
    集中は、やがて御内人をはじめとする幕府首脳部へ権力一極集中を促し、政治腐敗などに繋がった。政治紊乱は悪党蠢動など社会不安を惹起するなど、後後醍醐天皇による討幕運動が始まる遠因を作り出した時代でもあった。 晩年貞時行状は乱れて連日ように酒宴を開いたが、一門
    30キロバイト (4,232 語) - 2024年5月26日 (日) 11:25
  • 畠山重忠 (カテゴリ 平安時代武士)
    東南。 存命中から武勇誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。 畠山氏は坂東八平氏一つである秩父氏一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多く東国武士と同様に畠山氏も源氏家人となっていた。父重能は平治
    34キロバイト (5,570 語) - 2024年5月25日 (土) 16:50
  • 和田合戦のサムネイル
    和田合戦 (和田義盛からのリダイレクト)
    『吾妻鏡』によると5月2日(23日)、義盛隣家八田知重から、義盛館に軍兵が集まっていると大江広元に通報があった。酒宴最中であったが広元はひとり座を立ち急ぎ御所へ参じた。次いで、三浦義村から義時へ義盛挙兵報告が入る。義村は弟胤義と相談上で御所の護衛を決断。この時、義時は囲碁を打って…
    22キロバイト (3,726 語) - 2024年5月27日 (月) 13:05
  • 酒器 (カテゴリ 出典を必要とする節ある記事/2023年3月)
    性格が強い。 ウィキメディア・コモンズには、日本の酒器に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、酒樽に関連するカテゴリがあります。 盃(さかづき) 「盃を交わす」「盃を取らせる」といった表現があるように、日本文化
    16キロバイト (2,194 語) - 2024年4月8日 (月) 12:45
  • 誕生日のサムネイル
    誕生日 (出生からのリダイレクト)
    誕生日を祝う事例は多い。日本において最も古い誕生日祝賀記録は、宝亀6年(775年)10月13日光仁天皇誕生日を祝って殺生を禁断し、群臣に酒宴を賜ったというものがある。これは天長節名で呼ばれた天皇誕生日を祝う儀式
    32キロバイト (3,805 語) - 2024年4月26日 (金) 03:07
  • 首実検 (カテゴリ 武士)
    首実検(くびじっけん)とは、前近代、配下武士が戦場で討ちとった敵方首級(くび・しるし)身元を大将が判定し、その配下武士の論功行賞重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人戦功かどうか詮議場でもあった。夏期においては穂垂首(損傷著しい首)は軍監による確認に止め、大将には見せない場合もあった。…
    14キロバイト (2,737 語) - 2023年12月28日 (木) 13:03
  • 島津歳久 (カテゴリ 日本神 (人物神 戦国時代))
    酒豪であったといわれ、家中内の酒宴などでは下戸と伝わる兄・義久に代わり家臣杯を受けることも多かったといわれる。しかし晩年は中風を患い、後述するように自害際もそれが原因で難儀している。 前述とおり、島津家中では豊臣秀吉を脅威とする数少ない人物一人であった。だが皮肉なことに、最終的には反秀吉最も強硬派一人となる。…
    15キロバイト (2,501 語) - 2023年11月4日 (土) 06:50
  • はやし)など雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味ことばとなった。最狭義では朗詠のみを指しているが、「五節」と称される人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)節句において、宮中清涼殿「殿上間」に殿上人を召して催した酒宴
    5キロバイト (811 語) - 2023年8月27日 (日) 16:48
  • 畠山重忠の乱のサムネイル
    対立は周知こととなっていた。乱背景には武蔵支配を巡り、留守所畠山氏と国司朝雅を背景とした時政と対立があった。 元久元年(1204年)11月4日、京平賀朝雅邸で、将軍実朝妻坊門信清娘(西八条禅尼)を迎えるために上洛した御家人たち歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠嫡子重保と
    18キロバイト (3,080 語) - 2023年11月28日 (火) 16:40
  • 石橋山の戦いのサムネイル
    ^ a b 元木泰雄『河内源氏』〈中公新書〉、2011年。 ^ 川合康 著「中世武士の移動諸相」、メトロポリタン史学会 編『歴史なか移動とネットワーク』桜井書店、2007年。 /所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、42-44頁。  ^ 石橋山合戦 - 小田原市、2022年4月2日閲覧。…
    25キロバイト (4,155 語) - 2024年5月12日 (日) 16:19
  • 伊予河野氏の蜂起のサムネイル
    西寂は四国反乱を平定したのち、養和元年(1181年)正月15日に備後国鞆へ押し渡り、酒宴を開いて遊女と遊び戯れていたところ、死を覚悟した通信が武士百余人を率いて急襲した。不意を突かれた西寂は生け捕られ、通信は父仇である西寂を伊予国
    3キロバイト (468 語) - 2024年3月9日 (土) 03:17
  • シカのサムネイル
    シカ (カテゴリ 出典を必要とする節ある記事/2015年9月-10月)
    音を愛でる酒宴を催した。和歌を詠んだり詩を作ったりして待ち侘びたが、その夜に限って鹿が一向に鳴かない。そのうち、ひとりが「ウチ二十二歳息子ときたら、遊所通いばかりして商売は上の空。先行きが心配で、今宵の酒は飲んでも飲んでもちっとも酔えない」と愚痴った。すると別男は「あなた稼いだ銭金を実
    20キロバイト (2,807 語) - 2024年4月25日 (木) 02:21
  • 牧氏事件 (牧氏からのリダイレクト)
    比企能員翌月建仁3年(1203年)10月、時政後妻牧娘婿武蔵守平賀朝雅は京都守護ため上洛。朝雅上洛後に時政が将軍実朝命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙行政権を掌握していた。時政武蔵進出は、武蔵武士棟梁である時政前妻娘婿畠山重忠勢力圏へ進入であり、比企能員
    12キロバイト (2,253 語) - 2024年3月16日 (土) 21:45
  • 後光明天皇のサムネイル
    後光明天皇 (カテゴリ 江戸時代天皇)
    南東隅築地から院御所の北西隅まで高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏行幸は常こと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという。 ウィキソースに承応遺事原文があります。 平生酒を嗜んだが、ある酒宴席で徳大寺公信より酒
    14キロバイト (1,823 語) - 2024年1月27日 (土) 15:12
  • 佐々木盛綱のサムネイル
    佐々木盛綱 (カテゴリ 平安時代武士)
    下に参じ、10月20日富士川戦いで平氏を破り、23日に相模国府で行われた挙兵後初論功行賞では、旧領佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府で佐竹秀義と戦いにも加わる。 寿永元年(1182年)6月7日、由比ヶ浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉介抱を行う。10月17日、頼朝
    11キロバイト (1,570 語) - 2024年4月14日 (日) 13:42
  • 本膳料理 (カテゴリ 武士)
    使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。 なお、茶会における宴会本膳は「懐石」と呼び区別される。 日本における宴会は酒礼・饗膳・酒宴三部から構成され、中国唐礼や朝鮮半島から
    15キロバイト (2,667 語) - 2024年2月18日 (日) 00:36
  • 燃えよ剣 (カテゴリ 書きかけある項目)
    正規武士の出でないだけに武士というものに鮮烈な理想像を持ち、加えて故郷多摩が天領で源平時代に剽悍をもって鳴った坂東武者発祥地でもあることから、その理想を前にして容易に命を投げ出すことを己信条とする。自らを思想もなければ天下国家ことも頭に無く新選組を天下第一
    73キロバイト (11,023 語) - 2024年5月21日 (火) 12:38
  • ばして阿房をよそほふた。伊達政宗(仙臺六十萬石)はわざと大角鍔長脇差を帶びて登城し、將軍の酒宴に大盃を受けて、醉ふて眠つた。家光が長脇差を拔いて見たら木刀であつた。兩大名ともに、春日局視目〔ママ〕嗅鼻による內偵をおそれて、その裏を行き、わづかに身を完ふしてゐたのである。 これほど
  • 酒宴なども行われる豪勢なものであったが、室町幕府によって闘茶は規制された。 ↓ 室町時代中期(1400~1500年代)、村田珠光(むらた じゅこう)が、侘び茶を創始。 ↓ 戦国時代~安土桃山時代ころ(1550~1600年代)、千利休が、村田など先人にひきつづき侘び茶を発展させる。
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