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このウィキでページ「武士の酒宴」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- 書院造 (カテゴリ 日本の住宅の歴史)書院造(しょいんづくり)は、日本の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。…11キロバイト (1,849 語) - 2024年5月9日 (木) 11:30
- 黒田節 (カテゴリ 福岡県の酒)黒田節(くろだぶし)は、福岡県福岡市の民謡。「〽酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)の この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真の 黒田武士」の歌詞で有名。酒宴などでよく謡われる定番の唄である。なお、初期にレコード販売された頃は「黒田武士」と表記された。 筑前今様と呼ばれた福岡藩の武士…8キロバイト (1,364 語) - 2024年4月30日 (火) 13:30
- 北条貞時 (カテゴリ 13世紀日本の政治家)の集中は、やがて御内人をはじめとする幕府首脳部への権力の一極集中を促し、政治の腐敗などに繋がった。政治の紊乱は悪党の蠢動などの社会不安を惹起するなど、後の後醍醐天皇による討幕運動が始まる遠因を作り出した時代でもあった。 晩年の貞時の行状は乱れて連日のように酒宴を開いたが、一門の…30キロバイト (4,232 語) - 2024年5月26日 (日) 11:25
- 畠山重忠 (カテゴリ 平安時代の武士)の東南。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。 畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は平治の…34キロバイト (5,570 語) - 2024年5月25日 (土) 16:50
- 酒器 (カテゴリ 出典を必要とする節のある記事/2023年3月)の性格が強い。 ウィキメディア・コモンズには、日本の酒器に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、酒樽に関連するカテゴリがあります。 盃(さかづき) 「盃を交わす」「盃を取らせる」といった表現があるように、日本文化の…16キロバイト (2,194 語) - 2024年4月8日 (月) 12:45
- 首実検 (カテゴリ 武士)首実検(くびじっけん)とは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。夏期においては穂垂首(損傷の著しい首)は軍監による確認に止め、大将には見せない場合もあった。…14キロバイト (2,737 語) - 2023年12月28日 (木) 13:03
- 島津歳久 (カテゴリ 日本の神 (人物神 戦国時代))酒豪であったといわれ、家中内の酒宴などでは下戸と伝わる兄・義久に代わり家臣の杯を受けることも多かったといわれる。しかし晩年は中風を患い、後述するように自害の際もそれが原因で難儀している。 前述のとおり、島津家中では豊臣秀吉を脅威とする数少ない人物の一人であった。だが皮肉なことに、最終的には反秀吉の最も強硬派の一人となる。…15キロバイト (2,501 語) - 2023年11月4日 (土) 06:50
- のはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった。最狭義では朗詠のみを指しているが、「五節」と称される人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の節句において、宮中の清涼殿「殿上の間」に殿上人を召して催した酒宴…5キロバイト (811 語) - 2023年8月27日 (日) 16:48
- の対立は周知のこととなっていた。乱の背景には武蔵の支配を巡り、留守所畠山氏と国司朝雅を背景とした時政との対立があった。 元久元年(1204年)11月4日、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(西八条禅尼)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で朝雅と重忠の嫡子重保との…18キロバイト (3,080 語) - 2023年11月28日 (火) 16:40
- ^ a b 元木泰雄『河内源氏』〈中公新書〉、2011年。 ^ 川合康 著「中世武士の移動の諸相」、メトロポリタン史学会 編『歴史のなかの移動とネットワーク』桜井書店、2007年。 /所収:川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年、42-44頁。 ^ 石橋山合戦 - 小田原市、2022年4月2日閲覧。…25キロバイト (4,155 語) - 2024年5月12日 (日) 16:19
- 西寂は四国の反乱を平定したのち、養和元年(1181年)正月15日に備後国鞆へ押し渡り、酒宴を開いて遊女と遊び戯れていたところ、死を覚悟した通信が武士百余人を率いて急襲した。不意を突かれた西寂は生け捕られ、通信は父の仇である西寂を伊予国の…3キロバイト (468 語) - 2024年3月9日 (土) 03:17
- シカ (カテゴリ 出典を必要とする節のある記事/2015年9月-10月)の音を愛でる酒宴を催した。和歌を詠んだり詩を作ったりして待ち侘びたが、その夜に限って鹿が一向に鳴かない。そのうち、ひとりが「ウチの二十二歳の息子ときたら、遊所通いばかりして商売は上の空。先行きが心配で、今宵の酒は飲んでも飲んでもちっとも酔えない」と愚痴った。すると別の男は「あなたの稼いだ銭金を実の…20キロバイト (2,807 語) - 2024年4月25日 (木) 02:21
- 後光明天皇 (カテゴリ 江戸時代の天皇)の南東隅の築地から院御所の北西隅までの高廊下を急ぎ造らせた。そして「禁裏の内の行幸は常のこと」と言い、廊を渡って遂に見舞いを決行したという。 ウィキソースに承応遺事の原文があります。 平生酒を嗜んだが、ある酒宴の席で徳大寺公信より酒の…14キロバイト (1,823 語) - 2024年1月27日 (土) 15:12
- 佐々木盛綱 (カテゴリ 平安時代の武士)の下に参じ、10月20日の富士川の戦いで平氏を破り、23日に相模国府で行われた挙兵後初の論功行賞では、旧領の佐々木庄を安堵された。11月4日、常陸国府での佐竹秀義との戦いにも加わる。 寿永元年(1182年)6月7日、由比ヶ浜での酒宴で、酒に酔い倒れた加藤景廉の介抱を行う。10月17日、頼朝の…11キロバイト (1,570 語) - 2024年4月14日 (日) 13:42
- 本膳料理 (カテゴリ 武士)の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)。 なお、茶会における宴会の本膳は「懐石」と呼び区別される。 日本における宴会は酒礼・饗膳・酒宴の三部から構成され、中国の唐礼や朝鮮半島からの…15キロバイト (2,667 語) - 2024年2月18日 (日) 00:36
- 燃えよ剣 (カテゴリ 書きかけの節のある項目)正規の武士の出でないだけに武士というものに鮮烈な理想像を持ち、加えて故郷の多摩が天領で源平時代に剽悍をもって鳴った坂東武者の発祥の地でもあることから、その理想を前にして容易に命を投げ出すことを己の信条とする。自らを思想もなければ天下国家のことも頭に無く新選組を天下第一の…73キロバイト (11,023 語) - 2024年5月21日 (火) 12:38
- のばして阿房をよそほふた。伊達政宗(仙臺六十萬石)はわざと大角鍔の長脇差を帶びて登城し、將軍の酒宴に大盃を受けて、醉ふて眠つた。家光が長脇差を拔いて見たら木刀であつた。兩大名ともに、春日局の視目〔ママ〕嗅鼻による內偵をおそれて、その裏を行き、わづかに身を完ふしてゐたのである。 これほどの局の
- 酒宴なども行われる豪勢なものであったが、室町幕府によって闘茶は規制された。 ↓ 室町時代の中期(1400~1500年代)、村田珠光(むらた じゅこう)が、侘び茶を創始。 ↓ 戦国時代~安土桃山時代のころ(1550~1600年代)、千利休が、村田などの先人にひきつづき侘び茶を発展させる。