牧氏事件

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牧氏事件(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205年)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。

経過[編集]

発端[編集]

正治元年(1199年)に頼朝が死去した後、頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を一段と高めてゆく。そして遂には建仁3年(1203年)、頼朝の後継者の源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となる。

元久元年(1204年)、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。

元久2年(1205年)、この重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、時政の息子である北条義時は、重忠とは友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く(『吾妻鏡』)。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった(畠山重忠の乱)。

牧氏事件[編集]

同年閏7月、時政と牧の方は、実朝を廃して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとする。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招いた。

19日に政子・義時らは結城朝光三浦義村長沼宗政らを遣わして、時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れた。時政側についていた御家人の大半も義時に味方したため、陰謀は完全に失敗した。なお、時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする見解もある[1]

幕府内で完全に孤立無援になった時政と牧の方は7月20日に出家し、翌日には鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった。閏7月26日には朝雅も京都守護として滞在していた京で幕府の命によって殺害された。

この事件に関しては『六代勝事記』では時政が陰謀の計画を企てた、『北条九代記』では時政の謀計、『保暦間記』では時政・牧の方による実朝殺害が成功直前だったとしている。畠山重忠殺害に関して反対の立場であった義時は時政との対立を深めており、時政と政子・義時らの政治的対立も背景にあったと推測される。

その後と影響[編集]

時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保3年(1215年)、腫物のため北条の地で死去した。また、牧の方も夫の死後は朝雅の元妻で公卿の権中納言・藤原国通に再嫁した娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごした。そして、北条氏の第2代執権には義時が就任(ただし、承元3年(1209年)就任説もある)、義時のもとで北条氏は幕府内における地位を確固たるものとしていくのである。

ただし、この事件は、後に北条氏内部で起こる執権職をめぐっての内紛の先駆けにもなった。

脚注[編集]

  1. ^ 『北条義時』吉川弘文館。118頁。

関連項目[編集]