検索結果

(前の20件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示
  • 三好氏のサムネイル
    有馬重則 (播磨淡河城主) 三好長慶に仕えた三好一族 三好祐長 三好長朝 三好盛政 三好政保 三好長勝 三好勝時 三好氏の子孫 三好英之 [脚注の使い方] ^ 東京大学史料編纂所所蔵の原蔵文書である「七条氏系図」、「七条氏家系考証」、「七条氏本支録」などの記載によると、鎌倉時代後期 ~ 南北朝時代初期あたりに、三好
    53キロバイト (7,255 語) - 2024年4月9日 (火) 01:30
  • 三好郡のサムネイル
    令制国一覧 > 南海道 > 阿波国 > 三好郡 日本 > 四国地方 > 徳島県 > 三好三好郡(みよしぐん)は、徳島県(阿波国)の郡。 人口12,914人、面積122.48km²、人口密度105人/km²。(2024年3月1日、推計人口) 以下の1町を含む。 東みよし町(ひがしみよしちょう)…
    8キロバイト (1,083 語) - 2022年7月13日 (水) 04:54
  • 三好英之のサムネイル
    (鳥取県米子市道笑町、東京都) 三好家は道笑町・日野町にわたって本家分家が広い間口を占めて、諸商売を営み土地への投資も行った。米子近世の富商としての三好家は、阿波三好氏の一党である。元亀・天正のころ河内・和泉のあたりに活躍した三好康長は河内高屋城主であった。 横田村詮は三好の重臣であったが、三好
    16キロバイト (2,076 語) - 2023年11月4日 (土) 06:00
  • 三好義継のサムネイル
    三好 義継(みよし よしつぐ)は、戦国時代の武将・大名。河内国の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。 天文18年(1549年)、三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれる。はじめ十河 重存(そごう しげまさ)と名乗っていたが、永禄4年(1561年)4月に父が急死すると、幼少のため伯父の三…
    20キロバイト (3,300 語) - 2024年4月19日 (金) 21:12
  • 三好長慶のサムネイル
    山城国下五郡守護代であった三好元長の嫡男で、永正3年(1506年)に細川澄元に属して阿波国より上洛した三好之長の曾孫。三好実休、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。正室は波多野秀忠の娘(波多野氏)、継室は遊佐長教の娘(遊佐氏)。三好義興の父。通称は孫次郎、官位は従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑(=三好
    72キロバイト (12,330 語) - 2024年4月19日 (金) 21:27
  • 三好政権のサムネイル
    三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、阿波三好郡を本拠とし、阿波守護で細川氏分家の阿波細川家に代々仕え、四国勢を率いて管領細川高国を破り(両細川の乱)、細川政権を支えたが、天文元年(1532年)、三好氏の当主三好元長は、同族の三好政長の讒言により主君の細川晴元に誅殺された。 三好宗家は元長の嫡男である三好
    24キロバイト (3,912 語) - 2023年11月4日 (土) 13:53
  • 三好 長逸(みよし ながやす)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三…
    19キロバイト (3,173 語) - 2024年2月3日 (土) 20:21
  • 三好氏の一門衆。系譜に従えば三好長秀の子であるから、父が没したとされる永正6年(1509年)には誕生していたと推測されるが、天野忠幸は、康長が後に山城守を名乗っていることから、三好一秀の子あるいは孫であるとしている。文亀元年(1501年)生まれの三好元長は兄で、兄が宗家を継ぎ、その子である三好
    19キロバイト (3,106 語) - 2024年3月9日 (土) 22:06
  • 三好元長のサムネイル
    三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。 父に関しては三好長秀という説が有力であるが、祖父で長秀の父・三好之長の子という説もある。本来ならば之長の後継者だった長秀が早くに戦死したため、之長が元長を長秀の養子にしたという説がある。…
    12キロバイト (1,978 語) - 2023年10月18日 (水) 12:34
  • 三好 宗渭(みよし そうい)は、戦国時代の武将。三好氏一族、宗家の家臣であり、三好三人衆の1人である。 一般には政康と呼ばれている(後述)が、実際の名乗りは初めは右衛門大輔政勝、続いて下野守政生(まさなり)、後に出家し釣竿斎 宗渭(ちょうかんさい そうい)となった。 釣竿斎宗渭の俗名を三好
    13キロバイト (2,078 語) - 2024年4月1日 (月) 12:21
  • 戦国時代 (日本)のサムネイル
    研究振興会、2004年3月。  今谷明「細川・三好体制研究序説 : 室町幕府の解体過程」『林』第56巻第5号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1973年9月、ISSN 03869369、NAID 120006596838。  遠藤ゆり子 編『伊達氏と戦国争乱』吉川弘文館〈東北の中世〉、2015年。 …
    140キロバイト (24,218 語) - 2024年4月26日 (金) 01:03
  • 三好之長のサムネイル
    ウィキメディア・コモンズには、三好之長に関連するメディアがあります。 三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。 阿波でも最有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生、阿波守護であった細川氏分…
    23キロバイト (4,264 語) - 2024年4月21日 (日) 12:29
  • 三好 京三(みよし きょうぞう、1931年(昭和6年)3月27日 - 2007年(平成19年)5月11日)は、日本の小説家。本名、佐々木 久雄(ささき ひさお)。日本文芸家協会、日本ペンクラブ会員。岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)出身。 岩手県生まれ。家業は農業兼荷馬車業であった。生家の周囲は貧しい…
    12キロバイト (1,648 語) - 2024年2月2日 (金) 14:55
  • 豊臣秀次のサムネイル
    豊臣秀次 (三好秀次からのリダイレクト)
    吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし のぶよし)と名乗って三好家の名跡を継いだ。 秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名を秀次と改名。…
    151キロバイト (25,530 語) - 2024年4月2日 (火) 14:52
  • 三好重夫のサムネイル
    『日本廻国記 - わが旅のメモ』時評社、1968年。 『三好重夫逸稿集』三好浩介、1982年。 『内政研究資料』第40集〜第45集、内政研究会編、三好重夫氏 談話速記録 第1〜6回、1966年11月 - 12月。 『現代史を語る (2) 三好重夫――内政研究会談話速記録』伊藤隆監修、現代史料出版、2001年…
    4キロバイト (477 語) - 2024年3月1日 (金) 02:34
  • オキシジェン (お笑い) (三好博道からのリダイレクト)
    オキシジェンは、ホリプロコムと漫才協会(2015年加入)に所属する日本のお笑いコンビ。2003年結成。2人とも既婚者。 三好 博道(みよし ひろみち、 (1980-08-13) 1980年8月13日(43歳) -)ボケ担当、立ち位置は向かって左。 血液型O型。 神奈川県横浜市出身。 趣味はボーッとすること。特技は柔道。…
    16キロバイト (1,930 語) - 2024年4月25日 (木) 05:09
  • 三好徹のサムネイル
    三好 徹(みよし とおる、1931年1月7日 - 2021年4月3日)は、日本のジャーナリスト、作家。東京生まれ。推理小説、スパイ小説、歴史小説などを発表した。本名は河上 雄三。 小学生時代は「雷電為右衛門」などの少年講談や推理小説を愛読。旧制中学校1年の時に陸軍幼年学校を目指したが不合格、2年修了…
    26キロバイト (3,788 語) - 2024年2月26日 (月) 15:56
  • 三好匠のサムネイル
    三好 匠(みよし たくみ、1993年6月7日 - )は、福岡県北九州市戸畑区出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 北九州市立大谷小学校時代は大谷スポーツ少年団、北九州市立大谷中学校時代は軟式野球部に所属していた。中学3年夏にエースとして全国大会に出場し、初戦でノーヒットノーラン…
    24キロバイト (2,403 語) - 2024年2月11日 (日) 00:58
  • 三好 政長(みよし まさなが)は、戦国時代の武将。三好氏の一族。三好長尚の三男で長久、長家の弟。子に宗渭、為三、娘(池田信正室)。宗三の名でも知られる。細川晴元の側近として台頭し権勢を振るったが、後に三好長慶と対立して敗死した。 初期の経歴は不明だが、長兄の新五郎(長久)が永正17年(1520年)に…
    13キロバイト (2,169 語) - 2024年3月9日 (土) 04:03
  • 足利義輝のサムネイル
    三好の兵に討たれた。享年30(満29歳没)。 義輝の最期に関しては諸説ある。フロイスの『日本』では、義輝は自ら薙刀を振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された、と記されている。『 足利季世記』では、奮戦する義輝は三好
    102キロバイト (17,537 語) - 2024年4月19日 (金) 22:00
  • 三壺聞書巻之二 目録   今川駿河守義元の事 一三 美濃国森部合戦の事 一四 大阪城攻の事 一四 義輝将軍滅亡の事 一五 江州佐和山佐々木承禎を攻め給ふ事 一六 三好一党降参の事 一七 義昭将軍に任せらるゝ事 一七 家康公御先祖の事 一七 御系図 一八   【 NDLJP:16】   三壺聞書巻之二     今川駿河守義元の事
  • 1937年、海野十三「棺桶の花嫁」 お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。 1955年、三好十郎「樹氷」 今日はよくも村のもんをなぐつたなあ! 仕返しをしてやるから、喜助を出せえっ! (口語) 形式名詞「物(もの)」の撥音化。 1944年、岸田國士「火の扉」
  • りを求めました。そのため、松永久秀は恐れて足利義輝を殺しました。この出来事は、下剋上の例えになりました。松平久秀は三好三人衆[三好長逸・三好宗渭・岩成友通]と激しく争いました。一方、三好三人衆は足利義栄を第14代将軍に選びました。こうして室町幕府の求心力は完全に失われました。一方、石山(大坂)の本願
(前の20件 | ) (20 | 50 | 100 | 250 | 500 件) を表示