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'''費 聚'''(ひ じゅ、[[1326年]] - [[1390年]])は、[[元 (王朝)|元]]末から[[明]]初の軍人。字は'''子英'''(しえい)五河(現在の[[安徽省]][[五河県]]の人。[[朱元璋]]に仕えて、明建国の功臣となった。
'''費 聚'''(ひ じゅ、[[1326年]] - [[1390年]])は、[[元 (王朝)|元]]末から[[明]]初の軍人。字は'''子英'''。[[泗州]][[五河県]]の人。[[朱元璋]]に仕えて、明建国の功臣となった。


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! 家族・一族
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朱元璋と[[鳳陽県|濠]]で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。[[定遠県|定遠]]の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。[[郭子興]]はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。
朱元璋と[[濠]]で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。[[定遠県|定遠]]の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。[[郭子興]]はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。


[[至正]]13年([[1353年]])、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、[[泗県|泗州]]、[[滁州市|滁州]][[和|和州]]を攻略し、承信校尉となった。
[[至正]]13年([[1353年]])、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、泗州[[滁州]][[和州 (安徽省)|和州]]を攻略し、承信校尉となった。


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永興翼元帥府が立てられ、[[耿炳文]]の副将として[[長興県|長興]]を攻めた。[[張士誠]]軍が攻めてきたが、これを撃退した。安豊の救援に向かい、江西の平定、[[鄂城区|武昌]]の攻略に参加した。永興親軍指揮司を経て、指揮同知となり、永興翼元帥府の長である耿炳文を支えた。張士誠軍が再び攻めてきたが、これを撃退し、[[宋興祖]]を捕らえた。


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[[淮安|淮安]][[湖州 (浙江省)|湖州]][[蘇州 (古代)|平江]]の攻略に参加し、功績をあげて指揮使に進んだ。[[湯和]]に従って、水軍を率いて[[方国珍]]討伐に参加した。浙東を平定し、水軍で[[福州 (福建省)|福州]]を取り、[[延平|延平]]を攻略した。昌国に戻り、海賊及び蘭秀山にった賊徒を平定した。


[[洪武]]2年([[1369年]])、大軍で[[西安|西安]]を攻略して西安衛指揮使となり、都督府僉事に進んで[[平涼|平涼]]を守った。
[[洪武]]2年([[1369年]])、大軍で[[西安|西安]]を攻略して西安衛指揮使となり、都督府僉事に進んで[[平涼|平涼]]を守った。


洪武3年([[1370年]])、平涼侯に封ぜられ、歳禄1千5百石を賜った。屯田を行っていたが、この間、費聚は酒色に耽り、何もしなかった。
洪武3年([[1370年]])、平涼侯に封ぜられ、歳禄1千5百石を賜った。屯田を行っていたが、この間、費聚は酒色に耽り、何もしなかった。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『明史』 巻131 列伝第19
*『[[明史]]』巻131 列伝第19


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2022年5月12日 (木) 07:07時点における版

費 聚(ひ じゅ、1326年 - 1390年)は、末から初の軍人。字は子英泗州五河県の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。

生涯

姓名 費聚
時代 時代 - 時代
生没年 1326年泰定3年) - 1390年洪武23年)
字・別名 子英(字)
本貫・出身地 五河
職官 承信校尉→永興親軍指揮司→指揮同知

→指揮使→西安衛指揮使→都督府僉事
→貴州都指揮使→総兵官

爵位 平涼侯(明)
諡号 -
陣営・所属 朱元璋
家族・一族 父:費徳興、子:費超費璿

朱元璋と濠州で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。定遠の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。郭子興はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。

至正13年(1353年)、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、泗州・滁州和州を攻略し、承信校尉となった。

永興翼元帥府が立てられ、耿炳文の副将として長興を攻めた。張士誠軍が攻めてきたが、これを撃退した。安豊の救援に向かい、江西の平定、武昌の攻略に参加した。永興親軍指揮司を経て、指揮同知となり、永興翼元帥府の長である耿炳文を支えた。張士誠軍が再び攻めてきたが、これを撃退し、宋興祖を捕らえた。

淮安湖州平江の攻略に参加し、功績をあげて指揮使に進んだ。湯和に従って、水軍を率いて方国珍討伐に参加した。浙東を平定し、水軍で福州を取り、延平を攻略した。昌国に戻り、海賊及び蘭秀山に籠った賊徒を平定した。

洪武2年(1369年)、大軍で西安を攻略して西安衛指揮使となり、都督府僉事に進んで平涼を守った。

洪武3年(1370年)、平涼侯に封ぜられ、歳禄1千5百石を賜った。屯田を行っていたが、この間、費聚は酒色に耽り、何もしなかった。

洪武4年(1371年)、傅友徳に従い、雲南を攻めた。白石江の戦いで達里麻を捕らえて雲南を平定し、さらに大理へ進み、これを平定する。諸蛮が反乱を起こしたため、呉復の副将として、鎮圧に向かった。呉復と分かれて、これを討伐した。貴州都指揮使となった。

洪武18年(1385年)、総兵官となり、丁忠らを率いて広南を攻めた。火立達を捕らえ、捕虜20万人を得た。その後、雲南を守った。

洪武23年(1390年)、京師に召還された。李善長の獄に連座し、64歳で処刑された。爵位も除かれた。

参考文献

  • 明史』巻131 列伝第19