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'''ダルマパーラ・ラクシタ'''(Dharmapala-rakshita、[[1268年]] - [[1287年]])は、[[チベット仏教]][[サキャ派]]の[[仏教僧]]。[[元 (王朝)|大元ウルス]]における3代目の[[帝師]]を務めた。初代帝師[[パクパ]]の甥にたる。
'''ダルマパーラ・ラクシタ'''(Dharmapala-rakshita、[[1268年]] - [[1287年]])は、[[チベット仏教]][[サキャ派]]の[[仏教僧]]。[[元 (王朝)|大元ウルス]]における3代目の[[帝師]]を務めた。初代帝師[[パクパ]]の甥にたる。


[[漢文]][[史料]]の『[[元史]]』には'''ダルマパーラシリ'''(Dharmapālašrī > dāérmábālàqǐliè/答児麻八剌乞列)という表記も見られる<ref>野上/稲葉1958,435頁</ref>。
[[漢文]][[史料]]の『[[元史]]』には'''答児麻八剌剌吉塔'''(Dharmapala rakshita > dāérmábālà làjítǎ)という表記も見られる<ref>『[[元史]]』巻14世祖本紀11,「[至元十九年十二月]詔立帝師'''答児麻八剌剌吉塔'''、掌玉印、統領諸国釈教」</ref><ref>野上/稲葉1958,435頁</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
チベット語史料の『[[フゥラン・テプテル]]』などによると、ダルマパーラ・ラクシタは初代[[白蘭王]][[チャクナ・ドルジェ]]とその妃マクチカンドーブム(Ma gcig mkhaḥ ḥgro ḥbum)との間に[[戊辰]]([[1268年]])に生まれたという<ref>稲葉1965,119頁</ref>。14歳の時に大元ウルスの朝廷を訪れ、在家でありながら師の職(帝師)を務めるようになった<ref>『フゥラン・テプテル』と『ギャポェ』はこの箇所の記述が異なっており、前者は「14歳の時にチベットを訪れた」、後者は「14歳の時に朝廷を訪れた」と互いに矛盾する内容をそれぞれ記す。これは、「チベットへ(bod du)」と「朝廷へ(gon du)」がチベット文字上では類似しているためと考えられる。『フゥラン・テプテル』はこの後に再度「チベットへ帰った」と記されやはりチベット以外の地にいたことが示唆されること、ダルマパーラ・ラクシタが「帝師と為った」のならば「朝廷を訪れた」とする方が自然と考えられることから、後者が正しいと考えられる(稲葉1965,117-118頁)</ref>。
チベット語史料の『[[フゥラン・テプテル]]』などによると、ダルマパーラ・ラクシタは初代[[白蘭王]][[チャクナ・ドルジェ]]とその妃マクチカンドーブム(Ma gcig mkha' 'gro 'bum)との間に[[戊辰]]([[1268年]])に生まれたという<ref>稲葉1965,119頁</ref>。14歳の時に大元ウルスの朝廷を訪れ、在家でありながら師の職(帝師)を務めるようになった<ref>『フゥラン・テプテル』と『ギャポェ』はこの箇所の記述が異なっており、前者は「14歳の時にチベットを訪れた」、後者は「14歳の時に朝廷を訪れた」と互いに矛盾する内容をそれぞれ記す。これは、「チベットへ(bod du)」と「朝廷へ(gon du)」がチベット文字上では類似しているためと考えられる。『フゥラン・テプテル』はこの後に再度「チベットへ帰った」と記されやはりチベット以外の地にいたことが示唆されること、ダルマパーラ・ラクシタが「帝師と為った」のならば「朝廷を訪れた」とする方が自然と考えられることから、後者が正しいと考えられる(稲葉1965,117-118頁)</ref>。


帝師としてのダルマパーラ・ラクシタの事蹟は漢文史料側には全く言及がないが、チベット語史料側にはセチェン・カアン(世祖クビライ)に請うて「パクパの遺骨や聖物を安置した水晶の大塔」と、その大塔がある大寺を建てたと記される<ref>稲葉1965,117頁</ref>。また、大元ウルスの朝廷滞在中にチベット侵攻を指揮した[[コデン]]の子[[ジビク・テムル]]の娘ペンデン(Dpal ldan)を娶ったとも伝えられている<ref>佐藤/稲葉1964,120頁</ref>。
帝師としてのダルマパーラ・ラクシタの事蹟は漢文史料側には全く言及がないが、チベット語史料側にはセチェン・カアン(世祖[[クビライ]])に請うて「パクパの遺骨や聖物を安置した水晶の大塔」と、その大塔がある大寺を建てたと記される<ref>稲葉1965,117頁</ref>。また、大元ウルスの朝廷滞在中にチベット侵攻を指揮した[[コデン]]の子[[ジビク・テムル]]の娘ペンデン(dPal ldan)を娶ったとも伝えられている<ref>佐藤/稲葉1964,120頁</ref>。


ダルマパーラ・ラクシタの没年について、『元史』釈老伝は1286年([[至元]]23年)に亡くなったと記し<ref>『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……十一年、請告西還、留之不可、乃以其弟亦憐真嗣焉。……亦憐真嗣為帝師、凡六歳、至元十九年卒。'''答児麻八剌乞列'''嗣、二十三年卒」</ref>、『元史』世祖本紀には同年に次のイェシェー・リンチェンが帝師になったと記される<ref>『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦思憐真為帝師」</ref><ref>稲葉1965,118頁</ref>。一方、チベット語諸史料は一致してダルマパーラ・ラクシタは「サキャ派の座主」としてチベットを統治するため帰国する途上で亡くなったとするため、『元史』釈老伝の記述は帝師の辞任をダルマパーラ・ラクシタの死亡によるものと誤解した記述であると考えられる<ref>稲葉1965,118-119頁</ref>。また、チベット語史料の中でもダルマパーラ・ラクシタの没年について様々な説があるが、稲葉正就はより多くの史料が採用している[[1287年]](丁亥)没説を正しいとする<ref>稲葉1965,119頁</ref><ref>乙坂1989,42頁</ref>。
ダルマパーラ・ラクシタの没年について、『元史』釈老伝は1286年([[至元 (元世祖)|至元]]23年)に亡くなったと記し<ref>『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……十一年、請告西還、留之不可、乃以其弟亦憐真嗣焉。……亦憐真嗣為帝師、凡六歳、卒。至元十九年'''答児麻八剌剌吉塔'''嗣、二十三年卒」</ref>、『元史』世祖本紀には同年に次のイェシェー・リンチェンが帝師になったと記される<ref>『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦思憐真為帝師」</ref><ref>稲葉1965,118頁</ref>。一方、チベット語諸史料は一致してダルマパーラ・ラクシタは「サキャ派の座主」としてチベットを統治するため帰国する途上で亡くなったとするため、『元史』釈老伝の記述は帝師の辞任をダルマパーラ・ラクシタの死亡によるものと誤解した記述であると考えられる<ref>稲葉1965,118-119頁</ref>。また、チベット語史料の中でもダルマパーラ・ラクシタの没年について様々な説があるが、稲葉正就はより多くの史料が採用している[[1287年]]([[丁亥]])没説を正しいとする<ref>稲葉1965,119頁</ref><ref>乙坂1989,42頁</ref>。


ダルマパーラ・ラクシタの没後、[[クビライ]]は唯一残った[[コン氏]]直系の男子サンポペルの帰国を許さず拘禁したため、チベット本国における座主・大元ウルス朝廷における帝師の地位はともに非コン氏の人間の手に渡った<ref>乙坂1989,29-30頁</ref>。コン氏の不在とクビライによるチベットへの干渉の増大はサキャ派以外の諸宗派の不満を呼び起こし、やがて[[ディグン派の乱]]を引き起こすに至った<ref>乙坂1989,34頁</ref>。
ダルマパーラ・ラクシタの没後、[[クビライ]]は唯一残った[[コン氏]]直系の男子サンポペルの帰国を許さず拘禁したため、チベット本国における座主・大元ウルス朝廷における帝師の地位はともに非コン氏の人間の手に渡った<ref>乙坂1989,29-30頁</ref>。コン氏の不在とクビライによるチベットへの干渉の増大はサキャ派以外の諸宗派の不満を呼び起こし、やがて[[ディグン派の乱]]を引き起こすに至った<ref>乙坂1989,34頁</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
* 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
* {{Cite journal|和書|author=稻葉正就 |title=元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として- |journal=印度學佛教學研究 |issn=0019-4344 |publisher=日本印度学仏教学会 |year=1960 |volume=8 |issue=1 |pages=26-32 |naid=130004028242 |doi=10.4259/ibk.8.26 |url=https://doi.org/10.4259/ibk.8.26 |rep=harv}}
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* {{Cite journal|和書|author=稲葉正就 |title=元の帝師に関する研究系統と年次を中心として |journal=大谷大學研究年報 |publisher=大谷学会 |year=1965 |month=jun |issue=17 |pages=79-156 |naid=120006374687 |url=http://id.nii.ac.jp/1374/00005744/ |ref=harv}}


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2021年11月8日 (月) 02:00時点における版

ダルマパーラ・ラクシタ(Dharmapala-rakshita、1268年 - 1287年)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける3代目の帝師を務めた。初代帝師パクパの甥にあたる。

漢文史料の『元史』には答児麻八剌剌吉塔(Dharmapala rakshita > dāérmábālà làjítǎ)という表記も見られる[1][2]

概要

チベット語史料の『フゥラン・テプテル』などによると、ダルマパーラ・ラクシタは初代白蘭王チャクナ・ドルジェとその妃のマクチカンドーブム(Ma gcig mkha' 'gro 'bum)との間に戊辰1268年)に生まれたという[3]。14歳の時に大元ウルスの朝廷を訪れ、在家でありながら師の職(帝師)を務めるようになった[4]

帝師としてのダルマパーラ・ラクシタの事蹟は漢文史料側には全く言及がないが、チベット語史料側にはセチェン・カアン(世祖クビライ)に請うて「パクパの遺骨や聖物を安置した水晶の大塔」と、その大塔がある大寺を建てたと記される[5]。また、大元ウルスの朝廷滞在中にチベット侵攻を指揮したコデンの子のジビク・テムルの娘のペンデン(dPal ldan)を娶ったとも伝えられている[6]

ダルマパーラ・ラクシタの没年について、『元史』釈老伝は1286年(至元23年)に亡くなったと記し[7]、『元史』世祖本紀には同年に次のイェシェー・リンチェンが帝師になったと記される[8][9]。一方、チベット語諸史料は一致してダルマパーラ・ラクシタは「サキャ派の座主」としてチベットを統治するため帰国する途上で亡くなったとするため、『元史』釈老伝の記述は帝師の辞任をダルマパーラ・ラクシタの死亡によるものと誤解した記述であると考えられる[10]。また、チベット語史料の中でもダルマパーラ・ラクシタの没年について様々な説があるが、稲葉正就はより多くの史料が採用している1287年丁亥)没説を正しいとする[11][12]

ダルマパーラ・ラクシタの没後、クビライは唯一残ったコン氏直系の男子のサンポペルの帰国を許さず拘禁したため、チベット本国における座主・大元ウルス朝廷における帝師の地位はともに非コン氏の人間の手に渡った[13]。コン氏の不在とクビライによるチベットへの干渉の増大はサキャ派以外の諸宗派の不満を呼び起こし、やがてディグン派の乱を引き起こすに至った[14]

脚注

  1. ^ 元史』巻14世祖本紀11,「[至元十九年十二月]詔立帝師答児麻八剌剌吉塔、掌玉印、統領諸国釈教」
  2. ^ 野上/稲葉1958,435頁
  3. ^ 稲葉1965,119頁
  4. ^ 『フゥラン・テプテル』と『ギャポェ』はこの箇所の記述が異なっており、前者は「14歳の時にチベットを訪れた」、後者は「14歳の時に朝廷を訪れた」と互いに矛盾する内容をそれぞれ記す。これは、「チベットへ(bod du)」と「朝廷へ(gon du)」がチベット文字上では類似しているためと考えられる。『フゥラン・テプテル』はこの後に再度「チベットへ帰った」と記されやはりチベット以外の地にいたことが示唆されること、ダルマパーラ・ラクシタが「帝師と為った」のならば「朝廷を訪れた」とする方が自然と考えられることから、後者が正しいと考えられる(稲葉1965,117-118頁)
  5. ^ 稲葉1965,117頁
  6. ^ 佐藤/稲葉1964,120頁
  7. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……十一年、請告西還、留之不可、乃以其弟亦憐真嗣焉。……亦憐真嗣為帝師、凡六歳、卒。至元十九年、答児麻八剌剌吉塔嗣、二十三年卒」
  8. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年]是歳、以亦摂思憐真為帝師」
  9. ^ 稲葉1965,118頁
  10. ^ 稲葉1965,118-119頁
  11. ^ 稲葉1965,119頁
  12. ^ 乙坂1989,42頁
  13. ^ 乙坂1989,29-30頁
  14. ^ 乙坂1989,34頁

参考文献

  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
  • 稻葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687