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2020年5月30日 (土) 03:37時点における版
女医(じょい)は、女性の医師のことである。
統計
厚生労働省が実施している「医師・歯科医師・薬剤師調査」によると、2005年末における日本の医師の数は270,371人。病院と診療所で働いている医師は256,668人で、そのうち女性医師は42,040人。つまり全体の16.4%にあたる。[1]
歴史
古代から中世の医学では、理論的な医学を学ぶ医師には男性が多かったが、身体機能への理解や薬草などを用いた実用的な医療は女性のほうが精通しており、両者は異なる存在だった[2]。古代ギリシャには「産婆医者」「臍帯を切る女」「女医」の3つのカテゴリーの「治療する女」が存在した。古代ローマでは医療に心得のある女性をそのレベルに応じて呼び分けていたが、産科、婦人科、小児科に相当する女医は尊敬の対象となっていた。
ヨーロッパでは暗黒時代に医学は修道院がその主体となったが、婦人科の医学研究は羞恥心ゆえの忌避から後退を余儀なくされた[2]。中世の大学では女性の入学はほとんど認められず、医学は男性聖職者のものとなったが、10 - 13世紀に一般信徒に門戸を開いた数少ない大学の一つであるサレルノ大学では女性の入学が許され、中世後期につながる婦人科、小児科の文献が著された。12世紀以降になり、専門教育を受けた女医と民間医療の産婆との分化が始まった。
日本の女医の歴史
1875年に法制化された医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していたが、同試験に基づき国家資格を取得した日本人女性初の医師は、1885年に合格した荻野吟子。荻野以後,明治末年までに日本国内で医籍に登録された女性医師は外国人を含め約240名いた[3]。
1903年に医籍登録した福岡出身の井上トモは、クリーヴランド医大からミシガン大学医学部を卒業し日本で開業していたが[3]、1912年に極東旅行をしたミシガン大学理事のレヴィ・ルイス・バーバー(Levi Lewis Barbour)は中国で働く同大出身のアメリカ人女医や日本の井上のことを知り、帰国後同大学にアジア女性のための奨学金制度(バーバースカラシップ)を設立した[4]。
脚注
- ^ いしかわ統計指標ランド
- ^ a b シュメルツァー 1993, pp. 126–139.
- ^ a b 明治女医の基礎資料 三﨑裕子、日本医史学雑誌 第54巻第3号(2008)
- ^ Levi Lewis Barbour - Benefactor of University of Michigan WomenBordin, Ruth B., Michigan Quarterly Review
参考文献
- ヒルデ・シュメルツァー 著、進藤美智 訳『魔女現象』白水社、1993年。ISBN 4560028737。