「ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[ファイル:Johanna Charlotte von Anhalt Dessau.jpg|thumb|ヨハンナ・シャルロッテ]]
| 人名 = ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ
'''ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ'''('''Johanna Charlotte von Anhalt-Dessau''', [[1682年]][[4月6日]] [[デッサウ]] - [[1750年]][[3月31日]] [[ヘルフォルト]])は、[[ドイツ]]の[[アンハト=デッサウ]]家の侯女で、[[ブランデンブルク=シュヴェート]]辺境伯[[フィリップ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の妻。
| 各国語表記 = Johanna Charlotte von Anhalt-Dessau
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| 画像 = Johanna Charlotte von Anhalt Dessau.jpg
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1682|4|6|no}}
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1682|4|6|1750|3|31}}
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'''ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ'''('''Johanna Charlotte von Anhalt-Dessau''', [[1682年]][[4月6日]] - [[1750年]][[3月31日]])は、[[ドイツ]]の[[アンハト=デッサウ]]家の侯女で、[[ブランデンブルク=シュヴェート]]辺境伯[[フィリップ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)|フィリップ・ヴィルヘルム]]の妻。


== 生涯 ==
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2019年11月27日 (水) 11:06時点における版

ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウ
Johanna Charlotte von Anhalt-Dessau

出生 (1682-04-06) 1682年4月6日
デッサウ
死去 (1750-03-31) 1750年3月31日(67歳没)
ヘルフォルト
埋葬 ヘルフォルト修道院
配偶者 ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルム
子女 フリードリヒ・ヴィルヘルム
フリーデリケ・ドロテア・ヘンリエッテ
ヘンリエッテ・マリー
ゲオルク・ヴィルヘルム
フリードリヒ・ハインリヒ
シャルロッテ
家名 アンハルト=デッサウ家
父親 アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世
母親 ヘンリエッテ・カタリーナ・ファン・ナッサウ
役職 ヘルフォルト女子修道院修道院長(1729年 - 1750年)
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ヨハンナ・シャルロッテ・フォン・アンハルト=デッサウJohanna Charlotte von Anhalt-Dessau, 1682年4月6日 - 1750年3月31日)は、ドイツアンハルト=デッサウ家の侯女で、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムの妻。

生涯

アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク2世と、その妻でオランダ総督・オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの娘であるヘンリエッテ・カタリーナの間の末娘として生まれ、両親に大切にかしずかれて育った。

1699年1月25日にオラニエンバウムで、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後のプロイセン王)の異母弟であるブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フィリップ・ヴィルヘルムと結婚した。辺境伯夫妻はベルリンに居館を所有していたにもかかわらず、シュヴェート(現在のブランデンブルク州シュヴェート/オーダー)の所領で暮らした。1711年に若くして夫と死別するとベルリンに移り、子供たちの養育に専念した。

1729年、ヨハンナは帝国修道院の一つで、ブランデンブルク=プロイセンの保護下に置かれていたヘルフォルト女子修道院Stift Herford)の修道院長に就任した。しかし最初の頃はブーフホルツに暮らしており、ヘルフォルトに移ったのは1735年になってからであった。1750年に死去し、遺骸はヘルフォルト修道院内の教会のドームに安置された。

子女

参考文献

  • Johann Samuel Ersch: Allgemeine encyclopädie der wissenschaften und künste in alphabetischer folge, 2. Sektion, 21. Teil, Leipzig, 1842, S. 477 f.