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2006年8月19日 (土) 02:49時点における版

ウィーン体制下(1815年)のヨーロッパ

ウィーン体制(ウィーンたいせい, Vienna system, Vienna Settlement)は、ウィーン会議(1814-1815年)以後のヨーロッパの国際秩序である。クリミア戦争(1853-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的反動体制であった。

ウィーン会議でフランス外相タレーラン・ペリゴールの主張した正統主義を基に、フランス革命以前の状態を復活させ、大国勢力均衡を図った。神聖同盟(四国同盟)らの列強を中心に、自由主義国民主義運動を抑圧した。一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期(見方によっては第一次世界大戦まで)の安定をヨーロッパにもたらした。

しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後のギリシャ独立戦争フランス7月革命などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、1848年革命後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局クリミア戦争を回避することができず崩壊した。

関連項目