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戦後の[[財閥解体]]の混乱期に[[公職追放]]で役員の大半を失った際には、[[北裏喜一郎]]に対し「野村証券はこの程度の追放で屋台骨がくずれることはないはずだ。玉ねぎのようにいくら皮をむいても新しい芽が出てくる。」と述べて励ました<ref>1991/08/06, 日本経済新聞</ref>。 |
戦後の[[財閥解体]]の混乱期に[[公職追放]]で役員の大半を失った際には、[[北裏喜一郎]]に対し「野村証券はこの程度の追放で屋台骨がくずれることはないはずだ。玉ねぎのようにいくら皮をむいても新しい芽が出てくる。」と述べて励ました<ref>1991/08/06, 日本経済新聞</ref>。 |
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[[ジャパンライン]](現[[商船三井]])社長を務めた[[片岡晴四郎]]は次男。 |
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2018年4月10日 (火) 15:20時点における版
片岡 音吾(かたおか おとご、1880年 - 1948年5月6日)は日本の実業家。野村證券初代社長。
人物
大阪商業学校を経て、東京高等商業学校(のちの一橋大学)卒業。
日本興業銀行貸付課長を務めていた際に、切れ者との評判をきいた野村徳七にスカウトされ、新設された大阪野村銀行の実権を担う取締役兼支配人に37歳で就任[1]。
1920年大阪野村銀行に証券部が新設され、片岡は証券部部長に就任。1922年に、アメリカ合衆国に証券業界視察のため派遣され、1923年に帰国。
1925年に設立された野村證券の初代社長に就任。1926年に公社債専門業者として営業を開始、1927年にニューヨーク出張所を開設。1938年には公社債専業から脱却し株式業務へ進出するため、株式業務許可を得た[2]。1941年に社長退任。
戦後の財閥解体の混乱期に公職追放で役員の大半を失った際には、北裏喜一郎に対し「野村証券はこの程度の追放で屋台骨がくずれることはないはずだ。玉ねぎのようにいくら皮をむいても新しい芽が出てくる。」と述べて励ました[3]。