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[[File:Imperial Readings.jpg|thumb|『太平御覧』]]
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『'''太平御覧'''』(たいへいぎょらん {{zh2|t=太平御覽 |s=太平御览|hp=Tàipíng Yùlǎn}})は、[[中国]][[北宋 |宋]]代初期に成立した[[類書]]の一つである。同時期に編纂された『[[太平広記]]』、『[[冊府元亀]]』、『[[文苑英華]]』と合わせて'''四大書'''と称される。[[李昉]]による奉勅撰、[[977年]]から[[983年]]([[太平興国]]2-8年)頃の成立。
『'''太平御覧'''』(たいへいぎょらん {{zh2|t=太平御覽 |s=太平御览|hp=Tàipíng Yùlǎn}})は、[[中国]][[北宋 |宋]]代初期に成立した[[類書]]の一つである。同時期に編纂された『[[太平広記]]』、『[[冊府元亀]]』、『[[文苑英華]]』と合わせて'''四大書'''と称される。[[李昉]]、[[カク一式|傕一式]]らによる奉勅撰、[[977年]]から[[983年]]([[太平興国]]2-8年)頃の成立された


== 概要 ==
もとの名を太平総類いうが、[[太宗 (宋)|太宗]]が毎晩3巻ずつを閲読していたことから、現名に改められたという。構成は、天部から百卉部に及ぶ全55部よりなる。この部篇数は、『[[易経|周易]]』「繋辞伝」にある天地の数に基づいている。さらに、55部を附目を含めて5426類目に細分化している。各目には、諸々の書物の記事や文章を抜粋した上で分類排列している。
もとの名を太平総類呼ばれるが、[[太宗 (宋)|太宗]]が毎晩3巻ずつを閲読していたことから、現名に改められたという。構成は、天部から百卉部に及ぶ全55部よりなる。この部篇数は、『[[易経|周易]]』「繋辞伝」にある天地の数に基づいている。さらに、55部を附目を含めて5426類目に細分化している。各目には、諸々の書物の記事や文章を抜粋した上で分類排列している。


引用する書物の数は、巻頭にある書目によれば、1690種とするが、多少の重複が見られる。さらに、詩や賦などを含めれば、2000種以上に上ることとなる。ただし、原典からの引用ではなく、先行する類書である[[北斉]]の『修文殿御覧』(佚書)や、[[唐]]代の『[[芸文類聚]]』、『文思博要』(佚書)からのいわゆる孫引きであることが多い。ただ、引用書の大半が亡佚してしまった今となっては、資料的価値が高い。
引用する書物の数は、巻頭にある書目によれば、1690種とするが、多少の重複が見られる。さらに、詩や賦などを含めれば、2000種以上に上ることとなる。ただし、原典からの引用ではなく、先行する類書である[[北斉]]の『修文殿御覧』(佚書)や、[[唐]]代の『[[芸文類聚]]』、『文思博要』(佚書)からのいわゆる孫引きであることが多い。ただ、引用書の大半が亡佚してしまった今となっては、資料的価値が高い。

2017年12月25日 (月) 06:22時点における版

『太平御覧』

太平御覧』(たいへいぎょらん 簡体字: 太平御览; 繁体字: 太平御覽; 拼音: Tàipíng Yùlǎn)は、中国代初期に成立した類書の一つである。同時期に編纂された『太平広記』、『冊府元亀』、『文苑英華』と合わせて四大書と称される。李昉傕一式らによる奉勅撰、977年から983年太平興国2-8年)頃の成立された。

概要

もとの名を『太平総類』と呼ばれるが、太宗が毎晩3巻ずつを閲読していたことから、現名に改められたという。構成は、天部から百卉部に及ぶ全55部よりなる。この部篇数は、『周易』「繋辞伝」にある天地の数に基づいている。さらに、55部を附目を含めて5426類目に細分化している。各目には、諸々の書物の記事や文章を抜粋した上で分類排列している。

引用する書物の数は、巻頭にある書目によれば、1690種とするが、多少の重複が見られる。さらに、詩や賦などを含めれば、2000種以上に上ることとなる。ただし、原典からの引用ではなく、先行する類書である北斉の『修文殿御覧』(佚書)や、代の『芸文類聚』、『文思博要』(佚書)からのいわゆる孫引きであることが多い。ただ、引用書の大半が亡佚してしまった今となっては、資料的価値が高い。

版本としては、日本に伝来した1199年慶元5年)の蜀刻本の残本945巻が知られる。これに基づき、別系統の宋本で補った『四部叢刊三編』(上海商務印書館1935年)所収の景宋本、および、その重印本(中華書局1960年)が見られる。

宋は国内情報が敵国等に流出するのを恐れ、太平御覧を含めた文献資料の海外持ち出しを禁じていた。 高麗は宋を範にするため太平御覧を重視し、提供を繰り返し願い出ているが、その度に却下され続けた。微宗の登輝の祝賀に際して派遣された高麗の官僚の努力で下賜がまとまり、高麗の実務行政の長と一行が訪問し携えて帰国、1101年(肅宗6)念願の太平御覧1000冊を入手することができた[1]

脚注

外部リンク