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[[康熙]]26年11月27日([[1687年]]12月31日)に生まれた。康熙45年(1706年)、[[外藩蒙古|モンゴル]]の[[オンニュド旗]]の郡王・倉津と結婚した。康熙帝はみずから花婿の家まで送り屆けた。
[[康熙]]26年11月27日([[1687年]]12月31日)に生まれた。康熙45年(1706年)、[[外藩蒙古|モンゴル]]の[[オンニュド旗]]の郡王・倉津と結婚した。康熙帝はみずから花婿の家まで送り屆けた。


康熙48年(1709年)6月21日、双生児を産んで、その深夜に亡くなった<ref>康熙48年6月22日[[胤祉]]奏折:窃本月二十一日夜亥時、八公主産下双胞胎、因甚虚弱、不省人事。在彼護理之大夫霍桂芳、戴君選等未及用薬、一面往報在京値班之臣[[胤祺]]、[[胤祐]]、故皆未上、即時薨。今除臣胤祉、胤祺等与礼部、工部、内務府總管等共同按例料理喪事外、臣等叩請皇父、公主妹業已如此、聖躬甚属要緊、務須精心養神。此不但我等之福、且又天下衆人之福。再者公主之事臣等尚未奏聞[[孝恵章皇后|太后祖母]]、俟皇父命下之日、再行奏聞。所有大夫等奏書、謹并奏以聞。</ref><ref>康熙48年6月22日胤祉奏折附録1:公主産下二女。皆安然无恙。</ref><ref>康熙48年6月22日胤祉奏折附録2:六月二十一日亥時大人霍桂芳、戴君選請得八公主産下双胎、六全無、牙關緊急、四肢逆冷。用人参湯及童便、不能下咽、即時暴脱。謹此啓聞。</ref>。
康熙48年(1709年)6月21日、双生児を産んで、その深夜に亡くなった<ref>康熙48年6月22日[[胤祉]]奏折:窃本月二十一日夜亥時、八公主産下双胞胎、因甚虚弱、不省人事。在彼護理之大夫霍桂芳、戴君選等未及用薬、一面往報在京値班之臣[[胤祺]]、[[胤祐]]、故皆未上、即時薨。今除臣胤祉、胤祺等与礼部、工部、内務府總管等共同按例料理喪事外、臣等叩請皇父、公主妹業已如此、聖躬甚属要緊、務須精心養神。此不但我等之福、且又天下衆人之福。再者公主之事臣等尚未奏聞[[孝恵章皇后|太后祖母]]、俟皇父命下之日、再行奏聞。所有大夫等奏書、謹并奏以聞。</ref><ref>康熙48年6月22日胤祉奏折附録1:公主産下二女。皆安然无恙。</ref><ref>康熙48年6月22日胤祉奏折附録2:六月二十一日亥時大人霍桂芳、戴君選請得八公主産下双胎、六全無、牙關緊急、四肢逆冷。用人参湯及童便、不能下咽、即時暴脱。謹此啓聞。</ref>。


== 子女 ==
== 子女 ==

2017年8月17日 (木) 07:07時点における版

和碩温恪公主(わせきおんかくこうしゅ、1687年12月31日 - 1709年)は、康熙帝の十三女(夭逝を除いて第8皇女)。母は敏妃

生涯

康熙26年11月27日(1687年12月31日)に生まれた。康熙45年(1706年)、モンゴルオンニュド旗の郡王・倉津と結婚した。康熙帝はみずから花婿の家まで送り屆けた。

康熙48年(1709年)6月21日、双生児を産んで、その深夜に亡くなった[1][2][3]

子女

  • 女子が2人いた

参考文献

  • 清史稿
  • 『清聖祖実録』
  • 『翁牛特多羅杜棱郡王倉津所尚和碩温恪公主墓志』康熙帝

脚注

  1. ^ 康熙48年6月22日胤祉奏折:窃本月二十一日夜亥時、八公主産下双胞胎、因甚虚弱、不省人事。在彼護理之大夫霍桂芳、戴君選等未及用薬、一面往報在京値班之臣胤祺胤祐、故皆未趕上、即時薨。今除臣胤祉、胤祺等与礼部、工部、内務府總管等共同按例料理喪事外、臣等叩請皇父、公主妹業已如此、聖躬甚属要緊、務須精心養神。此不但我等之福、且又天下衆人之福。再者公主之事臣等尚未奏聞太后祖母、俟皇父命下之日、再行奏聞。所有大夫等奏書、謹并奏以聞。
  2. ^ 康熙48年6月22日胤祉奏折附録1:公主産下二女。皆安然无恙。
  3. ^ 康熙48年6月22日胤祉奏折附録2:六月二十一日亥時大人霍桂芳、戴君選請得八公主産下双胎、六脈全無、牙關緊急、四肢逆冷。隨用人参湯及童便、不能下咽、即時暴脱。謹此啓聞。