「アカイア人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[ファイル:Achia.jpg|thumb|350px]]
[[ファイル:Achia.jpg|thumb|350px]]
[[ファイル:Macedonia and the Aegean World c.200.png|thumb|350px|[[紀元前2世紀]]のギリシア]]
[[ファイル:Macedonia and the Aegean World c.200.png|thumb|350px|[[紀元前2世紀]]のギリシア]]
'''アカイア人'''(または{{lang-grc|Ἀχαιοί}}, Achaioi, '''アカイオイ''')とは、[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]頃[[テッサリア]]方面から南下して[[ペロポネソス半島]]一帯に定住したとされる[[古代ギリシア]]の集団。後に、その一部は[[イオニア人]]と呼ばれる様になった。
'''アカイア人'''({{lang-grc|Ἀχαιοί}}, Achaioi, '''アカイオイ''')とは、[[紀元前20世紀|紀元前2000年]]頃[[テッサリア]]方面から南下して[[ペロポネソス半島]]一帯に定住したとされる[[古代ギリシア]]の集団。後に、その一部は[[イオニア人]]と呼ばれる様になった。


== 概要 ==
== 概要 ==
アカイオイの呼び名は、『[[イリアス]]』や『[[オデュッセイア]]』といった[[ホメロス]]の[[叙事詩]]では、そこで描かれるギリシア人の総称として用いられている。[[ミケーネ文明]]を構成した集団と考えられており、[[ミノア文明]]を滅ぼした。[[アナトリア半島]]に勢力を持った[[ヒッタイト#ヒッタイト新王国|ヒッタイト新王国]]時代の[[粘土板]]文書や、[[エジプト]]の碑文に、'''アヒヤワ'''({{lang-en|Ahhiyawa}})の名前で登場する。
アカイオイの呼び名は、『[[イリアス]]』や『[[オデュッセイア]]』といった[[ホメロス]]の[[叙事詩]]では、そこで描かれるギリシア人の総称として用いられている。[[ミケーネ文明]]を構成した集団と考えられており、[[ミノア文明]]を滅ぼした。[[アナトリア半島]]に勢力を持った[[ヒッタイト#ヒッタイト新王国|ヒッタイト新王国]]時代の[[粘土板]]文書や、[[エジプト]]の碑文に、'''アヒヤワ'''({{lang-en|Ahhiyawa}})の名前で登場する。


その一部は後に南下してきた[[ドーリア人]]に征服された。
その一部は後に南下してきた[[ドーリア人]]に征服された。
12行目: 12行目:
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ギリシャの歴史]]
* [[ギリシャの歴史]]
* [[アカイア]]


{{デフォルトソート:あかいあしん}}
{{デフォルトソート:あかいあしん}}

2016年3月5日 (土) 04:34時点における版

紀元前2世紀のギリシア

アカイア人古代ギリシア語: Ἀχαιοί, Achaioi, アカイオイ)とは、紀元前2000年テッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住したとされる古代ギリシアの集団。後に、その一部はイオニア人と呼ばれる様になった。

概要

アカイオイの呼び名は、『イーリアス』や『オデュッセイア』といったホメロス叙事詩では、そこで描かれるギリシア人の総称として用いられている。ミケーネ文明を構成した集団と考えられており、ミノア文明を滅ぼした。アナトリア半島に勢力を持ったヒッタイト新王国時代の粘土板文書や、エジプトの碑文に、アヒヤワ英語: Ahhiyawa)の名前で登場する。

その一部は後に南下してきたドーリア人に征服された。

ミケーネ文明崩壊後、暗黒時代を経てポリス時代に入ってからは、アカイオイの呼称はテッサリア南東部と、シュキオン英語版からエーリスにかけてのコリントス湾岸の住民を指した。この時代のアカイオイが建設した殖民市に、南イタリアシュバリス英語版クロトンなどがある。ギリシア本土のアカイオイ12のポリスはアカイア同盟を構成し、アカイオイ以外をも含み拡大した。その後解体し、紀元前280年に4つのポリスによって再結成された。

関連項目