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'''貴妃王氏'''は、[[北宋]][[徽宗]]の[[貴妃]]。なお、徽宗には他にも[[王貴妃 (曖昧さ回避)|王姓の貴妃]]がおり、[[懿粛貴妃]]、[[小王貴妃 (宋)|小王貴妃]]と呼んで区別される。
'''貴妃王氏'''(きひ おうし、生没年不明)は、[[北宋]][[徽宗]]の[[貴妃]]。なお、徽宗には他にも[[王貴妃 (曖昧さ回避)|王姓の貴妃]]がおり、[[懿粛貴妃]]、[[小王貴妃 (宋)|小王貴妃]]と呼んで区別される。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
初め欽聖皇后(徽宗の嫡母)の侍女を務め、後に端王趙佶(のちの徽宗)の側室となった。端王が皇帝に即位後、初め寿昌郡君となり、美人、嬪、妃に進み、貴妃にいたった。の寵愛を受けて、多人の子供を産んだ。
初め[[欽聖皇后]](徽宗の嫡母)の侍女を務め、後に端王趙佶(のちの徽宗)の側室となった。端王が皇帝に即位後、初め寿昌郡君となり、美人、嬪、妃に進み、貴妃にいたった。徽宗の寵愛を受けて、多人の子供を産んだ。


[[靖康の変]]時まで、彼女相関有りません。早くに薨去したか、いは流落して行方知れずとなった。
[[靖康の変]]の前後の動静についてはない。早くに薨去したか、あるいは変の際に行方知れずとなったかも不明である


== 子女 ==
== 子女 ==
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* 『宋会要輯稿』
* 『宋会要輯稿』


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2015年4月28日 (火) 14:22時点における版

貴妃王氏(きひ おうし、生没年不明)は、北宋徽宗貴妃。なお、徽宗には他にも王姓の貴妃がおり、懿粛貴妃小王貴妃と呼んで区別される。

生涯

初め欽聖皇后(徽宗の嫡母)の侍女を務め、後に端王趙佶(のちの徽宗)の側室となった。端王が皇帝に即位後、初め寿昌郡君となり、美人、嬪、妃に進み、貴妃にいたった。徽宗の寵愛を受けて、多人の子供を産んだ。

靖康の変の前後の動静については記録がない。早くに薨去したか、あるいは変の際に行方知れずとなったかも不明である。

子女

伝記資料

  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』