趙テン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
趙梴から転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「趙梴」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

趙 梴(ちょう てん、1112年 - ?)は、北宋徽宗の皇子。

経歴[編集]

貴妃王氏(大王貴妃)の息子として生まれた。同母兄に趙楷、同母姉に崇徳帝姫保淑帝姫熙淑帝姫がいる。相国公の位を授けられた。

靖康の変の際の混乱で、趙梴と容貌がよく似ていた李浩という少年が、軍に誤って捕らえられた。欽宗はこれを幸いとし、機に乗じて本物の趙梴の逃亡を画策したが、失敗した。完顔設野馬(趙梴の異母姉・趙富金の後夫)の干渉で、徹底的な追及は免れた。この頃、金軍に拉致された趙柍(趙梴の異母弟、明節皇后の息子)が軍営で死去した。結局、趙梴が趙柍の名で、李浩が趙梴の名で連行された。

金に到着後(金の天会5年(1127年)6月)、設野馬が太宗に願い出て、2人は赦免された。翌月、設野馬は側女の陳桃花(元は徽宗の妃嬪)を趙梴に、耶律氏を李浩に、妻として与えた。その後、趙梴は燕山(北京)に定住した。金の天会8年(1130年)、完顔斜保(趙梴の異母姉・趙珠珠の夫)も側女の孔令則(元は趙柍の婚約者)を趙梴に与えた。

『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで趙梴は金で健在であった。

家族[編集]

  • 妻:陳桃花
  • 側室[1]:孔令則
  • 息子:趙成功、趙成式 – 陳桃花の子。
  • 娘:趙氏 – 孔令則の娘。

伝記資料[編集]

  • 宋史
  • 『靖康稗史箋證』
  • 『宋会要輯稿』
  • 『三朝北盟会編』

脚注[編集]

  1. ^ あるいは継室。