「劉継元」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
27行目: 27行目:
生母は世祖[[劉崇|劉旻]]の娘で、[[薛釗]]に嫁いで少主[[劉継恩]]を儲けたが、薛釗が劉旻の兄[[劉知遠]]([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗[[劉鈞]]に養子として迎えられた。
生母は世祖[[劉崇|劉旻]]の娘で、[[薛釗]]に嫁いで少主[[劉継恩]]を儲けたが、薛釗が劉旻の兄[[劉知遠]]([[後漢 (五代)|後漢]]の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗[[劉鈞]]に養子として迎えられた。


[[天会 (北漢)|天会]]12年([[968年]])、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]によって皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母である郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。また、[[宦官]]に政治をまかせていたという。
[[天会 (北漢)|天会]]12年([[968年]])、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が[[侯霸栄]]により殺害されると、[[司空]]である[[郭無為]]によって皇帝に推戴された。即位後は[[遼]]との緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母である郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。[[宦官]]に政治をまかせていたという。


[[974年]]には広運と改元、翌年には[[遼]]によって大漢英武皇帝に冊封されている。
[[974年]]には広運と改元、翌年には[[遼]]によって大漢英武皇帝に冊封されている。

2014年9月1日 (月) 14:09時点における版

英武帝 劉継元
北漢
第4代皇帝
王朝 北漢
在位期間 968年 - 979年
姓・諱 劉継元
諡号 英武帝
生年 不詳
没年 淳化2年12月18日
992年1月25日
何氏
世祖の娘
后妃 馬皇后
年号 天会 : 968年 - 973年
広運 : 974年 - 979年

劉 継元(りゅう けいげん)は、十国北漢の第4代(最後)の皇帝。

生涯

生母は世祖劉旻の娘で、薛釗に嫁いで少主劉継恩を儲けたが、薛釗が劉旻の兄劉知遠後漢の高祖)に自害を命じられた後に何氏に嫁ぎ継元を儲けている。父母が共に死去すると継元は睿宗劉鈞に養子として迎えられた。

天会12年(968年)、睿宗が崩御し異父兄の少主が帝位を継ぐと、継元は太原尹に任じられた。同年、少主が侯霸栄により殺害されると、司空である郭無為によって皇帝に推戴された。即位後はとの緊張関係改善に努めた。しかし残忍な性格面も有しており、養母である郭皇后及び世祖の子を殺害し、また反抗する臣下も一族誅滅するなどして、国内は大いに乱れた。宦官に政治をまかせていたという。

974年には広運と改元、翌年にはによって大漢英武皇帝に冊封されている。

広運6年(979年)、華南全土を支配下におさめたは北征を開始、太宗趙炅の親征が実施された。遼は北漢へ援軍を送るが宋軍の前に敗退し、英武帝は宋に投降、ここに北漢は滅亡した。

宋に臣属した後は右衛上将軍に任じられ、彭城郡公に封じられた。太平興国6年(981年)には彭城公に、雍熙3年(986年)には保康軍節度使に任じられている。

淳化2年(992年)に病死すると、中書令が追贈されると共に彭城郡王に追封された。

先代
少主
北漢の第4代皇帝
968年 - 979年
次代
滅亡