「ピア・アンジェリ」の版間の差分

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[[サルデーニャ島]]の[[カリャリ]]出身。16歳のときに[[イタリア映画]]でデビュー。とくに1950年の『[[明日では遅すぎる]]』(主演)ではイタリア映画の[[ネオレアリズモ|ネオ・レアリスモ運動]]の大きな原動力となったこの作品の評価と商業的成功に多大に貢献、これが1950年代の米国進出([[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]と契約)のきっかけとなる。MGMでは[[ポール・ニューマン]]の『[[傷だらけの栄光]]』(当初は[[ジェームズ・ディーン]]主演の予定だった)でヒロインを演じるなど清純派女優として[[ハリウッド]]で活躍した。それ以降はイタリアを中心にヨーロッパ映画に出演。
 
[[カーク・ダグラス]]の自伝によると、ダグラスとピアは1953年制作の映画『[[三つの恋の物語]]』([[オムニバス映画]]で第3話「均衡」)で出会い、1950年代前半に婚約していたという<ref>{{cite book|last=Douglas|first=Kirk |title=The Ragman's Son: An Autobiography|publisher=G.K. Hall|date=1989|pages=35, 174, 187, 202|isbn=0-816-14795-7}}</ref>。その後、『[[エデンの東 (映画)|エデンの東]]』を撮影中だったディーンと恋に落ちるが、ピアの母親の反対(アンジェリ家は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]だったがディーンはカトリックでなかったことが原因だったといわれる)などもあって短期間で別れたことは有名。
 
ディーンと別れた翌年の1954年[[歌手]]兼[[俳優]]の[[ビック・ダモン]]と結婚し男児を儲けたが離婚。作曲家[[アルマンド・トロヴァヨーリ]]と結婚して男児をもうけている。その後はアメリカ映画の作風の変化(暴力・性的表現の過激化など)についていけなくなったことから歌手としてアルバムなど作品リリースを行なうなどするも人気・仕事では低迷・不遇が続いていたといわれる。
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