「陸羽」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Kaznov17 (会話 | 投稿記録)
肖像画追加
MerlIwBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: diq:Lu Yu
39行目: 39行目:
[[bo:ལུའུ་ཡུས།]]
[[bo:ལུའུ་ཡུས།]]
[[br:Lu Yu]]
[[br:Lu Yu]]
[[diq:Lu Yu]]
[[en:Lu Yu]]
[[en:Lu Yu]]
[[hu:Lu Jü]]
[[hu:Lu Jü]]

2012年6月19日 (火) 10:06時点における版

西安大雁塔にある陸羽の像

陸 羽(りく う、733年 - 804年)は、中国代の文筆家。の知識をまとめた『茶経』3巻などを著述した。またの名を疾、は鴻漸、季疵、号は桑苧翁と称した。(他からは竟陵子と呼ばれた)。他の著作に『毀茶論』、『君臣契』、『源解』、『陸文学自伝』(『茶経』以外は散逸)がある。

経歴

春木南溟筆 陸羽像(部分) 天保12年

復州竟陵郡(現在の湖北省天門市)出身。捨て子として3歳くらいのときに浜で競陵龍盖寺の智積禅師に拾われた。姓名は、長じてから、筮竹を引いて、その卦の文字から選んで決めた。容貌はさえず、しゃべり方に吃音があったが、雄弁であったという。

幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。

逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。天宝年間に、竟陵太守・李斉物の目に止まり、書を教えられ、学問を学んだ。その後、竟陵司馬の崔国輔と交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。

至徳元年(756年)、安史の乱を避け、江南に行き、上元元年(760年)頃、呉興(現在の浙江省)に庵をつくって、隠居し、桑苧翁と号し、著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に建中元年(780年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。

大暦年間に、湖州刺史として赴任してきた顔真卿のもとで、『韻海鏡原』編集に加わった。御史大夫の李季卿に冷遇され、『毀茶論』を著したこともある。

伝記資料

  • 新唐書』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸[1]「陸羽伝」

参考文献

  • 陳舜臣 『茶の話 茶事遍路』 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1992年、ISBN 978-4022607058
  • 成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249
  • 『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894

  1. ^ ウィキソース出典  (英語) 新唐書/卷196, ウィキソースより閲覧。 

外部リンク