「ヨハン・ゲオルク1世 (アンハルト=デッサウ侯)」の版間の差分

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'''ヨハン・ゲオルク1世'''('''Johann Georg I. von Anhalt-Dessau''', [[1567年]][[5月9日]] - [[1618年]][[5月24日]])は、[[アンハルト公国|アンハルト]]侯(在位:[[1586年]] - 1603年)、後にアンハルト=デッサウ侯(在位:1603年 - 1618年)。
 
アンハルト侯[[ヨアヒム・エルンスト (アンハルト侯)|ヨアヒム・エルンスト]]とその最初の妻アグネス・フォン・バルビの間の長男として生まれた。1586年に父が死ぬと、彼は[[長子相続]]を定めていない家憲に従って、同母弟の[[クリスティアン1世 (アンハルト=ベルンブルク侯)|クリスティアン1世]]及び5人の異母弟達(ベルンハルト、[[アウグスト (アンハルト=プレッツカウ侯)|アウグスト]]、[[ルドルフ (アンハルト=ツェルプスト侯)|ルドルフ]]、ヨハン・エルンスト、[[ルートヴィヒ1世 (アンハルト=ケーテン侯)|ルートヴィヒ1世]])と共にアンハルト侯領を共同で相続した。大勢の異母弟達が未だ未成年のため、彼らが成人するまではヨハン・ゲオルクが侯領の統治を単独で行った。
 
[[1603年]]、ヨハン・ゲオルクと存命中の弟4人の間で分割相続に関する協定が結ばれ(ベルンハルトは[[1596年]]、ヨハン・エルンストは[[1601年]]に死去)、ヨハン・ゲオルクは長子の相続領とされたアンハルト=デッサウ侯領を確保した。ヨハン・ゲオルクは[[1606年]]まで弟達の創設した諸侯領全体を統治したが、それ以後は弟達は独立した。ヨハン・ゲオルクはデッサウの統治者として領内の[[宗教改革]]を熱心に進め、[[カトリック教会]]の伝統文化と典礼の根絶を強圧的な姿勢で続けた。妹のザクセン=ヴァイマル公爵夫人[[ドロテア・マリア・フォン・アンハルト|ドロテア・マリア]]の葬儀の最中だった[[1617年]][[8月24日]]、ヨハン・ゲオルクは末弟のアンハルト=ケーテン侯ルートヴィヒ1世と共にドイツ最初の文芸サークル「[[実りをもたらす会]]」を結成した。
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