「デュッラキウムの戦い」の版間の差分
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ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を[[騎兵]]で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはデュッラキウムにあったポンペイウス軍の本拠に対し、塹壕と城壁を組み合わせた包囲陣地を作り始めた。これに対しポンペイウスもカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。 |
ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を[[騎兵]]で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはデュッラキウムにあったポンペイウス軍の本拠に対し、塹壕と城壁を組み合わせた包囲陣地を作り始めた。これに対しポンペイウスもカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。 |
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さらにポンペイウスは、海からの攻撃も加えカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走したため、カエサル軍は恐慌状態に陥って32本の軍旗を奪われ、カエサルも危うく命を失 |
さらにポンペイウスは、海からの攻撃も加えカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走したため、カエサル軍は恐慌状態に陥って32本の軍旗を奪われ、カエサルも危うく命を失うほどの完敗であった。実際にカエサルは撤退せずに向き直って立ち向かうように兵士に指示したが、その兵士がかえって逆上して、危うくカエサルを斬り殺しそうになったと伝わっている。ただし、ポンペイウスはカエサル軍の余りの負けっぷりに、罠を仕掛けているのでは思ったことから、追撃を止めた。これはカエサルにとっては幸運であった。「今日、もう少し工夫すれば勝利は完全に敵のものであったものを」とカエサルは後に語った。 |
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カエサルは[[テッサリア]]へ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったが[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]や[[ルキウス・アフラニウス]]ら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げによりカエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称される[[ファルサルスの戦い]]が行われることになる。 |
カエサルは[[テッサリア]]へ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったが[[ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前54年の執政官)|ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]や[[ルキウス・アフラニウス]]ら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げによりカエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称される[[ファルサルスの戦い]]が行われることになる。 |
2011年11月8日 (火) 09:33時点における版
デュッラキウムの戦い | |
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戦争:ローマ内戦 | |
年月日:紀元前48年7月10日 | |
場所:デュッラキウム(現:ドゥラス) | |
結果:元老院派の勝利 | |
交戦勢力 | |
カエサル派 | 元老院派 |
指導者・指揮官 | |
カエサル | ポンペイウス |
戦力 | |
15,000 | 45,000 |
損害 | |
1,000 | 不明 |
デュッラキウムの戦い(デュッラキウムのたたかい、伊:Battaglia di Dyrrhachium)は、紀元前48年7月10日にデュッラキウムで行われた戦いであり、グナエウス・ポンペイウスらの元老院派がガイウス・ユリウス・カエサル率いるカエサル派を撃破した。 「デュラキウムの戦い」「ディラキウムの戦い」「ドゥラキウムの戦い」とも表記される。
概要
ヒスパニアでポンペイウス軍を倒したカエサルはポンペイウスを攻撃するためにアドリア海を横断して、紀元前48年1月4日にギリシャに着陸、オリクムとアポロニアを占領した。
ポンペイウスの軍隊は主に新兵であり、彼は攻撃する気がなかったが、カエサル軍を騎兵で上回り、兵糧も潤沢であった。カエサルはデュッラキウムにあったポンペイウス軍の本拠に対し、塹壕と城壁を組み合わせた包囲陣地を作り始めた。これに対しポンペイウスもカエサル軍との小競り合いの後に多くの丘を占領して対抗した。
さらにポンペイウスは、海からの攻撃も加えカエサル軍を圧倒した。南側はカエサル軍の弱点であり、なすすべもなくカエサル軍の兵の多くは遁走したため、カエサル軍は恐慌状態に陥って32本の軍旗を奪われ、カエサルも危うく命を失うほどの完敗であった。実際にカエサルは撤退せずに向き直って立ち向かうように兵士に指示したが、その兵士がかえって逆上して、危うくカエサルを斬り殺しそうになったと伝わっている。ただし、ポンペイウスはカエサル軍の余りの負けっぷりに、罠を仕掛けているのでは思ったことから、追撃を止めた。これはカエサルにとっては幸運であった。「今日、もう少し工夫すれば勝利は完全に敵のものであったものを」とカエサルは後に語った。
カエサルはテッサリアへ撤退していった。ポンペイウスは追跡に慎重であったがルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスやルキウス・アフラニウスら、功を焦った強硬なカエサルの政敵たちによる突き上げによりカエサルを追跡したことで、古代ローマ最大の激戦とも称されるファルサルスの戦いが行われることになる。