「ウィーン体制」の版間の差分

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一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期の安定を欧州にもたらしていた。
一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期の安定を欧州にもたらしていた。


しかし、[[産業革命]]による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化などから次第に枠組みが揺らぎ始め、[[1848年革命]]後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局[[クリミア戦争]]を回避することができず崩壊した。
しかし、[[産業革命]]による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後の[[ギリシャ独立戦争]]・[[フランス7月革命]]などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、[[1848年革命]]後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局[[クリミア戦争]]を回避することができず崩壊した。


==[[ウィーン議定書]]における領土変更==
==[[ウィーン議定書]]における領土変更==

2005年8月27日 (土) 04:23時点における版

ウィーン体制Vienna system, Vienna Settlement)は、ウィーン会議以後のヨーロッパ世界の体制。クリミア戦争によって完全に崩壊するまで続く国際的反動体制

フランス外相タレーラン・ペリゴール正統主義を基に、フランス革命以前の状態を復活させ、大国勢力均衡を図った。神聖同盟四国同盟を中心に、自由主義国民主義運動を抑圧。

一方で、その基本理念はヨーロッパの協調にあり、国家間の諸問題の解決に外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期の安定を欧州にもたらしていた。

しかし、産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後のギリシャ独立戦争フランス7月革命などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始め、1848年革命後に大国の被支配地域を中心にナショナリズムが先鋭化すると、体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになり、結局クリミア戦争を回避することができず崩壊した。

ウィーン議定書における領土変更

  • ケープ植民地:イギリスがオランダより獲得。