「堀三政」の版間の差分

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[[堀秀重]]の六男(五男とする系図もある)で、[[堀秀政]]の弟。[[徳川忠長]]に仕えていたが、忠長が改易され浪人となる。[[寛永]]12年([[1635年]])、三政は[[新発田藩]]の[[溝口宣直]]公御預となる。溝口宣直の母長寿院が三政の姪であり、藩主の大伯父であったため(『[[寛永諸家系図伝]]』)、藩中では尊敬されていた(新発田藩の世臣譜では三政は長寿院の兄で、藩主の伯父となっている。三政は秀政の息子[[堀秀治|秀治]]より年下で、長寿院と年が近かったための勘違いかと思われる。)三政は、仕官はせず、閑幽と号し、生涯客分の身であった。末期に及び、宣直公より「何ぞ云ひ置事か、望もあるや」と尋ねたところ、「伜とも両人に代々二百石ずつ賜りたし」と言ったという。
[[堀秀重]]の六男(五男とする系図もある)で、[[堀秀政]]の弟。[[徳川忠長]]に仕えていたが、忠長が改易され浪人となる。[[寛永]]12年([[1635年]])、三政は[[新発田藩]]の[[溝口宣直]]公御預となる。溝口宣直の母長寿院が三政の姪であり、藩主の大伯父であったため(『[[寛永諸家系図伝]]』)、藩中では尊敬されていた(新発田藩の世臣譜では三政は長寿院の兄で、藩主の伯父となっている。三政は秀政の息子[[堀秀治|秀治]]より年下で、長寿院と年が近かったための勘違いかと思われる。)三政は、仕官はせず、閑幽と号し、生涯客分の身であった。末期に及び、宣直公より「何ぞ云ひ置事か、望もあるや」と尋ねたところ、「伜とも両人に代々二百石ずつ賜りたし」と言ったという。


嫡男の[[堀重昌|堀重昌勘兵衛重昌]]、三男の[[堀重時|善大夫重時]]がそれぞれ二百石ずつ賜り、武頭(物頭)となる。子孫は各々勘兵衛、善大夫を名乗り、明治維新まで、新発田藩に武頭の家系として仕えた。
嫡男の[[堀重昌|勘兵衛重昌]]、三男の[[堀重時|善大夫重時]]がそれぞれ二百石ずつ賜り、武頭(物頭)となる。子孫は各々勘兵衛、善大夫を名乗り、明治維新まで、新発田藩に武頭の家系として仕えた。


==参考文献==
==参考文献==

2009年9月1日 (火) 09:13時点における版

堀 三政(ほりみつまさ 生年不詳 - 明暦3年(1657年))は、江戸時代の武将。は勘兵衛。

堀秀重の六男(五男とする系図もある)で、堀秀政の弟。徳川忠長に仕えていたが、忠長が改易され浪人となる。寛永12年(1635年)、三政は新発田藩溝口宣直公御預となる。溝口宣直の母長寿院が三政の姪であり、藩主の大伯父であったため(『寛永諸家系図伝』)、藩中では尊敬されていた(新発田藩の世臣譜では三政は長寿院の兄で、藩主の伯父となっている。三政は秀政の息子秀治より年下で、長寿院と年が近かったための勘違いかと思われる。)三政は、仕官はせず、閑幽と号し、生涯客分の身であった。末期に及び、宣直公より「何ぞ云ひ置事か、望もあるや」と尋ねたところ、「伜とも両人に代々二百石ずつ賜りたし」と言ったという。

嫡男の勘兵衛重昌、三男の善大夫重時がそれぞれ二百石ずつ賜り、武頭(物頭)となる。子孫は各々勘兵衛、善大夫を名乗り、明治維新まで、新発田藩に武頭の家系として仕えた。

参考文献

  • 『新発田藩史料 第二巻 藩臣編』 新発田市史編纂委員会編 国書刊行会 1988
  • 『寛永諸家系図伝』