「アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン」の版間の差分
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2009年8月23日 (日) 04:46時点における版
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein, Albrecht Václav Eusebius z Valdštejna, 1583年9月24日 ボヘミア - 1634年2月25日 ボヘミア・エーガー Eger(現ヘプ Cheb))は、中世の三十年戦争期のボヘミア(ベーメン)の傭兵隊長である。もとの姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)。
ボヘミアのプロテスタントの小貴族の家に生まれるが、カトリックに改宗してイタリアのパドヴァ大学に遊学した。 帰国後に傭兵となる。
1618年にボヘミア反乱が起こると神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。 1623年に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられる。 陸上での戦争ではデンマーク王クリスチャン4世などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。
功績が認められてメクレンブルク公となるが、旧来の帝国諸侯の反感をかい総司令官を解任された。 その後、スウェーデン軍の侵入で後任の総司令官ティリー伯が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復活。この際、選帝侯位を要求したとも言われる。
しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、1632年にはリュッツェンの戦いでスウェーデン国王グスタフ・アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、皇帝軍将校に暗殺された。
選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。
彼を題材にシラーが書き上げた戯曲「ヴァレンシュタイン」がある。