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若い頃から男伊達で気前がよく、[[曹操]]や[[袁紹]]とも親友のように仲が良かった<ref>袁紹とは、[[許攸]]、[[何顒]]、[[伍瓊]]達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結び(「袁紹伝」)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かった。</ref>頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになった。三公の府に招聘を受け、成績優秀という評価を受け、騎都尉を務めた後、[[董卓]]の名士優遇策の一環として、陳留郡の太守に任命された(「董卓伝」)。
若い頃から男伊達で気前がよく、[[曹操]]や[[袁紹]]とも親友のように仲が良かった<ref>袁紹とは、[[許攸]]、[[何顒]]、[[伍瓊]]達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結び(「袁紹伝」)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かった。</ref>頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになった。三公の府に招聘を受け、成績優秀という評価を受け、騎都尉を務めた後、[[董卓]]の名士優遇策の一環として、陳留郡の太守に任命された(「董卓伝」)。


袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張邈は、曹操らとともに参戦した<ref>「[[臧洪]]伝」によると、張邈や張超が中心となって盟約を結び、義挙に賛同した諸侯の中から袁紹を盟主として推したとある</ref>。張邈は弟の張超や曹操、兗州刺史の[[劉岱 (東莱)|劉岱]]、山陽太守の[[袁遺]]、東郡太守の[[橋瑁]]と共に酸棗に駐屯したが、酒宴ばかりで戦をしようとしなかった<ref>当時董卓に仕えていた[[鄭泰]]という人物によると、張邈は勉強ばかりして書斎に閉じこもって座敷をのぞこうともしない人物だという([[鄭渾]]伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。</ref>。曹操が戦をするようよびかけると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の[[衛茲]]を同行させた。しかし、曹操達は董卓の派遣した[[徐栄]]に大敗し、衛茲は戦死した。酸棗の軍勢も兵糧が尽きて解散した(「後漢書』)。
袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張邈は、曹操らとともに参戦した<ref>「[[臧洪]]伝」によると、張邈や張超が中心となって盟約を結び、義挙に賛同した諸侯の中から袁紹を盟主として推したとある</ref>。張邈は弟の張超や曹操、兗州刺史の[[劉岱 (東莱)|劉岱]]、山陽太守の[[袁遺]]、東郡太守の[[橋瑁]]、済北の相[[鮑信]]と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯は酒宴ばかりで戦をしようとしなかった<ref>当時董卓に仕えていた[[鄭泰]]という人物によると、張邈は勉強ばかりして書斎に閉じこもって座敷をのぞこうともしない人物だという([[鄭渾]]伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。</ref>。曹操が戦をするようよびかけると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の[[衛茲]]を同行させた。しかし、曹操達は董卓の派遣した[[徐栄]]に大敗し、衛茲は戦死した。酸棗の軍勢も兵糧が尽きて解散した(「後漢書』)。


これ以前、袁紹は、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。長安で勃発した政変の結果、、董卓の部下である[[李カク|李{{lang|zh|傕}}]]達に敗れて落ち延びてきた[[呂布]]と張邈は親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、呂布が張邈の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。
これ以前、袁紹は、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。長安で勃発した政変の結果、、董卓の部下である[[李カク|李{{lang|zh|傕}}]]達に敗れて落ち延びてきた[[呂布]]と張邈は親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、呂布が張邈の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。
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『[[三国志演義]]』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
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== 脚注 ==
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2009年8月6日 (木) 15:27時点における版

張 邈(ちょう ばく、? - 195年)は、後漢末期の政治家。陳留郡の太守。東平郡寿張の人。孟卓張超の兄。『三国志』では「呂布伝」に付伝されている。

生涯

「董卓伝」の引く『漢末名士録』や『後漢書』の「党錮伝」によると、漢の八俊(八厨)の一人であったとある。 若い頃から男伊達で気前がよく、曹操袁紹とも親友のように仲が良かった[1]頭脳の明晰さと徳行で官界に知られるようになった。三公の府に招聘を受け、成績優秀という評価を受け、騎都尉を務めた後、董卓の名士優遇策の一環として、陳留郡の太守に任命された(「董卓伝」)。

袁紹を盟主として董卓を討つ連合軍が結成された時、張邈は、曹操らとともに参戦した[2]。張邈は弟の張超や曹操、兗州刺史の劉岱、山陽太守の袁遺、東郡太守の橋瑁、済北の相鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯は酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[3]。曹操が戦をするようよびかけると(武帝紀)、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を同行させた。しかし、曹操達は董卓の派遣した徐栄に大敗し、衛茲は戦死した。酸棗の軍勢も兵糧が尽きて解散した(「後漢書』)。

これ以前、袁紹は、董卓を討つべく集まった諸侯に対して奢ったふるまいを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。長安で勃発した政変の結果、、董卓の部下である達に敗れて落ち延びてきた呂布と張邈は親交を結ぶのだが、それが原因で袁紹の不興を買ってしまう。以前に袁紹と呂布とは諍いを起こしており、呂布が張邈の下に逗留していたのは、袁紹によって厄介払いされたものが転がり込んでいた為である。

いずれの時も、曹操が袁紹にとりなしたため、危うく難を逃れている。 しかし、張邈は、こうして曹操に命を助けておいてもらいながらも、『いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか』と、曹操に疑念を抱くようになったとも記されている。

193年、曹操は徐州陶謙を攻めるために本拠を留守にした。張邈は、食客として遇していた陳宮から、「今こそ曹操の領地を奪う好機」と唆され、また、曹操と不仲だった弟の張超にも諭され、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こす。 張邈と呂布は短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。急報を聞きつけ、遠征先の徐州から引き返し、逆襲を期する曹操軍を返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧程昱が守る3城を落とせず、曹操の勢力に止めを刺す事は出来なかった。その後、飢饉が勃発し、両者の争いは一時的に中断される。

翌々年の195年には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。張邈は、陳留の一族を救出するため袁術に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りにあい、殺された。前後して陳留は落ち、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。このころには曹操は長安の天子から正式に兗州の牧に任命され(武帝紀)、張邈達は賊の立場に追い込まれていた。

196年、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。

三国志演義』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。

脚注

  1. ^ 袁紹とは、許攸何顒伍瓊達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結び(「袁紹伝」)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かった。
  2. ^ 臧洪伝」によると、張邈や張超が中心となって盟約を結び、義挙に賛同した諸侯の中から袁紹を盟主として推したとある
  3. ^ 当時董卓に仕えていた鄭泰という人物によると、張邈は勉強ばかりして書斎に閉じこもって座敷をのぞこうともしない人物だという(鄭渾伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。

関連項目