「ハンス・ブルクマイアー」の版間の差分
m →外部リンク: DEFAULTSORTから濁点の修正 |
m ロボットによる 追加: pt:Hans Burgkmair |
||
33行目: | 33行目: | ||
[[de:Hans Burgkmair der Ältere]] |
[[de:Hans Burgkmair der Ältere]] |
||
[[en:Hans Burgkmair]] |
[[en:Hans Burgkmair]] |
||
⚫ | |||
[[eo:Hans Burgkmair]] |
[[eo:Hans Burgkmair]] |
||
⚫ | |||
[[fr:Hans Burgkmair]] |
[[fr:Hans Burgkmair]] |
||
[[hu:Hans Burgkmair]] |
[[hu:Hans Burgkmair]] |
||
[[pl:Hans Burgkmair |
[[pl:Hans Burgkmair starszy]] |
||
[[pt:Hans Burgkmair]] |
|||
[[ru:Бургкмайр, Ганс]] |
[[ru:Бургкмайр, Ганс]] |
2009年5月4日 (月) 07:00時点における版
ハンス・ブルクマイアー(父)(Hans Burgkmair der Ältere, 1473年 - 1531年)は、ドイツの画家、版画家。
生涯
ブルクマイアーはアウグスブルクに画家トマス・ブルクマイアーの子として生まれた[1]。ちなみに、ブルクマイアーの同名の息子も画家である(Hans Burgkmair dem Jüngere、1500年 - 1562年)。1488年、コルマールでマルティン・ションガウアー(Martin Schongauer)の弟子となるが、ブルクマイアーが通常の修行期間を終える前にションガウアーが亡くなってしまった(1491年)。その後、アウグスブルクで仕事をし、1498年には親方となり自分の工房を開いた。1507年にはイタリアを訪れ、そのスタイルに影響を受けた。
ホルスタインはブルクマイアーの手になる木版画が全部で834、そのほとんどは本の挿絵で、そうでないものは100ちょっとしかない、とした。その中でとくに優れたものは構成が際だっていて、完全にとはいかないまでもイタリア・ルネサンスのスタイルとブルクマイアーの根底にあるドイツのスタイルがブレンドされている。1508年頃からは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のために木版画制作に多くの時間を費やし、それは皇帝の亡くなる1519年まで続いた。『マクシミリアン1世の凱旋』と題された135の木版画のほぼ半分は人物を画面いっぱいに描いていて、高い評価を受けた。他には『Weißkunig』と『Theuerdank』の挿絵のほとんどを手掛けた。
ブルクマイアーはキアロスクーロ版画の発明者としても重要な人物である。1508年に最初に1つのトーンブロック(色版)を使った[2]。『"死"に驚く恋人たち』(1510年)では3つの版木を用いた[3]。ラインブロック(線描画の主版)では満足な仕上がりにならなかったので、最初に色のみで印刷するように設計した。ハンス・バルドゥングやルーカス・クラナッハによる以降のキアロスクーロ版画ではラインブロックも使われるようになった[4]。
ブルクマイアーは成功した画家で、アウグスブルク市民や皇帝の宮廷のメンバーのために宗教画も制作した。それらの多くはミュンヘンやウィーンなどのギャラリーにある。肖像画は宗教画より現代的な感覚のものである。
ブルクマイアーは1531年にアウクスブルクで亡くなった。
脚注
- ^ Hans Burckmair(カトリック百科事典)
- ^ Emperor Maximilian on Horseback
- ^ Lovers Surprised by Death
- ^ The Renaissance Print, David Landau & Peter Parshall, Yale, 1996, ISBN 0300068832