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2009年4月27日 (月) 14:40時点における版

渋川 尹繁(しぶかわ ただしげ、不明-天文3年(1534年)?)は、室町時代後期-戦国時代前期の武将室町幕府九州探題本姓源氏足利氏の一門渋川氏の出身。父は渋川教直。兄弟に渋川政実渋川万寿丸渋川和是ら。子に渋川義長渋川尭顕?。幼名は刀祢王丸。右兵衛佐と称す。肥前守護。

長享元年(1487年)、兄の万寿丸が筑前亀尾城で家臣に裏切られて殺害されると渋川家当主となる。長享3年(1489年少弐高経によって肥前綾部館を攻撃され、筑後の犬塚城へ追われる。しかし、延徳3年(1491年)には高経の岳父大友政親によって犬塚城をも追われ、肥前勝ノ尾城へ移るなど九州探題の渋川氏は滅亡寸前まで追い込まれた。

この苦難の中で渋川氏が頼りとしたのは、やはり西国の雄・大内氏であった。明応5年(1496年)肥前守護となり、翌明応6年(1497年)には大内義興によって政資・高経親子は自刃に追い込まれ、渋川氏はなんとか延命することができた。明応9年(1500年)刀祢王丸は、義興によって大内氏へ身を寄せていた前将軍足利義尹に拝謁し正式に九州探題に任じられ、また義尹の偏諱を受け「尹繁」と改めた。

しかし、永正元年(1504年)、政資の3男少弐資元によって居城の白虎山城を追われ九州探題職を子の義長に譲ったとされる。その後の動向は不明な点が多いが、後に少弐氏に通じた為、天文3年(1534年)に大内軍によって綾部館を攻められ自害したともいう。

関連項目