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'''河東の乱'''(かとうのらん)とは、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天文 (日本)|天文]]5年([[1536年]])から天文14年[[1545年]]までの間に、[[駿河国]]([[静岡県]]中部および東部)で起こった戦である。駿河の[[今川氏]]と[[相模国]]の[[後北条氏]]の争いで、「河東」は争奪の対象となった[[富士川]]以東の地域を意味する。河東一乱。
'''河東の乱'''(かとうのらん)とは、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[天文 (日本)|天文]]5年([[1536年]])から天文14年[[1545年]]までの間に、[[駿河国]]([[静岡県]]中部および東部)で起こった戦である。駿河の[[今川氏]]と[[相模国]]の[[後北条氏]]の争いで、「河東」は争奪の対象となった[[富士川]]以東の地域を意味する。河東一乱。


== 戦国期の駿相関係と河東の乱 ==
== 戦国期の駿相関係と河東の乱 ==

2008年10月23日 (木) 03:37時点における版

河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代天文5年(1536年)から天文14年1545年までの間に、駿河国静岡県中部および東部)で起こった戦である。駿河の今川氏相模国後北条氏の争いで、「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する。河東一乱。

戦国期の駿相関係と河東の乱

戦国期の東国において、今川氏と相模の新興大名であった北条氏は駿相同盟を結び甲斐国武田氏と抗争していたが、今川氏では氏輝期に武田と和睦し、花倉の乱を経て天文5年(1536年)に当主となった今川義元は翌天文6年2月に甲斐国守護武田信虎の娘である定恵院を正室に迎え、甲駿同盟が強化された。北条氏は甲相国境において武田方と抗争していたため甲駿同盟は駿相同盟を破綻させ、2月26日には北条家当主であった氏綱は駿河へ侵攻する義元も軍勢を出して氏綱の軍勢を追い出しにかかったが、氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠した。

氏綱は遠江国(静岡県西部)の堀越氏井伊氏などと手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまう。信虎も義元に援軍を遣わしたが、それでも河東から北条軍を追い出す事は出来なかった。敗因として、天文5年(1535年年)に発生した今川家のお家騒動花倉の乱)が鎮静化して間もなく、北条軍が攻め込んできたために対処が後手に回った事が挙げられる。[要出典]エラー: タグの中に無用な文字が含まれていないか、{{要出典範囲}}と{{要出典}}を間違えていないかを確認してください。貼り付け年月は「date=yyyy年m月」、チップテキストに表示する文字列は「title=文字列」と指定してください。[1]


天文10年には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の晴信(信玄)が当主となり信濃侵攻を開始する。相模でも氏綱が死去し氏康が家督を継承し河東における対峙と平行して北関東進出を企図し、両国間では甲相同盟が成立している。

天文14年(1545年)9月には、義元は北条に占拠されたままの河東を奪還すべく行動を開始した。義元は晴信や北関東において北条方と抗争していた山内上杉氏上杉憲正の許に使者を遣わし、北条家挟み撃ち作戦を持ちかけ、実行に移している。前回とは逆に挟み撃ちにされた北条軍はこれに応戦したものの、今川・武田・山内上杉の連合軍が兵力を分断する作戦に打って出たため、今川軍の攻撃に押され徐々に退却せざるを得なくなった。そのままの勢いで今川軍は三島(静岡県三島市)まで攻め入り、長久保城駿東郡長泉町)を落として河東地域を奪還した。同年10月には晴信が仲介役として双方の間に割って入り、停戦が成立した(『高白斎記』による)。

この講和により河東の乱は収束し、今川は三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれ、天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての甲相駿三国同盟が成立する。

参考文献

  1. ^ 『番外編日本の100人第2巻 今川義元』 デアゴスティーニ社刊、2008年1月22日発行(8ページ)


関連項目