「ディック・ヨーク」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cprobot (会話 | 投稿記録)
m cprobot: subst Template:生没年
TXiKiBoT (会話 | 投稿記録)
m robot Adding: es:Dick York
9行目: 9行目:
== 献身 ==
== 献身 ==
仕事を失い破産して、所有していた建物まで手放すという困難に遭いながら、妻ジョアンと奮闘し、身体が回復したときには150ポンドも体重を増やし、歯のほとんどは無くなっていたという。ヨークの死後発表された妻の回顧録『[[:en:The Seesaw Girl and Me|The Seesaw Girl and Me]]』によると、彼が演技にふたたび興味をもち、俳優として復帰するまでにはさらに時間がかかった。「Simon and Simon」や「Fantasy Island」をふくめ、いくつかのゴールデンアワー・テレビ番組に出た頃には、増やした体重を減らすことに成功していた。晩年は気腫のため、[[ミシガン州]]・ロックフォートの小さな家で闘病生活を過ごした。彼自身も寝たきりの身でありながら、ボランティア団体を結成し、電話を使って政治家や有名人・一般人に呼びかけ、ホームレスを助けるための義捐金を募るなど活動に最後まで尽くしていた。
仕事を失い破産して、所有していた建物まで手放すという困難に遭いながら、妻ジョアンと奮闘し、身体が回復したときには150ポンドも体重を増やし、歯のほとんどは無くなっていたという。ヨークの死後発表された妻の回顧録『[[:en:The Seesaw Girl and Me|The Seesaw Girl and Me]]』によると、彼が演技にふたたび興味をもち、俳優として復帰するまでにはさらに時間がかかった。「Simon and Simon」や「Fantasy Island」をふくめ、いくつかのゴールデンアワー・テレビ番組に出た頃には、増やした体重を減らすことに成功していた。晩年は気腫のため、[[ミシガン州]]・ロックフォートの小さな家で闘病生活を過ごした。彼自身も寝たきりの身でありながら、ボランティア団体を結成し、電話を使って政治家や有名人・一般人に呼びかけ、ホームレスを助けるための義捐金を募るなど活動に最後まで尽くしていた。

[[Category:アメリカ合衆国の俳優|よく ていく]]
[[Category:1928年生|よく ていく]]
[[Category:1992年没|よく ていく]]


[[de:Dick York]]
[[de:Dick York]]
[[en:Dick York]]
[[en:Dick York]]
[[es:Dick York]]
[[fr:Dick York]]
[[fr:Dick York]]
[[pt:Dick York]]
[[pt:Dick York]]
[[simple:Dick York]]
[[simple:Dick York]]
[[Category:アメリカ合衆国の俳優|よく ていく]]
[[Category:1928年生|よく ていく]]
[[Category:1992年没|よく ていく]]

2007年4月27日 (金) 08:37時点における版

ディック・ヨーク(Dick York 、1928年9月4日1992年2月20日)はアメリカのラジオ声優・ブロードウェイ俳優・テレビ俳優。本名リチャード・アレン・ヨーク。

実力派俳優

インディアナ州・フォートウェイン市に生まれる。シカゴで育ち、カトリック聖歌隊でその才能を最初に示す。15歳の時に、CBSのラジオ番組「ブリュースター・ボーイ That Brewster Boy」でスターとしての経歴を始める。100くらいのラジオショーや教育映画に出演した後、ニューヨークへ行き、ブロードウェイで「Tea and Sympathy」と「Bus Stop」の舞台に立つ。ポール・ムニジョアン・ウッドワードらとテレビ放送をつとめ、「My Sister Eileen」「Cowboy」「They Came to Cordura」などの映画でジャネット・リージャック・レモンゲーリー・クーパーと共演した。1960年の古典的な映画「風を嗣ぐもの Inherit the Wind」では、スペンサー・トレイシーフレデリック・マーチジーン・ケリーと伍して、進化論を教え学校を追放される若い教師バートラム・ケイツの役を演じた。さらに彼はケリーとコメディ「我が道を行く」に、そして現在では古典として知られる連続番組「アルフレッド・ヒッチコック・プレゼンツ」のなかでも「幌馬車隊 Wagon Train」「ミステリー・ゾーン The Twilight Zone」「ルート66」に出演し、テレビスターとしての地位を確立した。

ダーリン役として

ヨークが俳優としてもっとも知られているのは、1960年からの連続ホームコメディ「奥さまは魔女」での初代のダーリン・スティーブンスの役を通じてである。この番組の成功により彼は1968年エミー賞にノミネートされた。ところが映画「They Came to Cordura」の撮影で落馬し背中に損傷を負ったうえ、その苦痛を緩和するために薬物を乱用し、依存症を引き起こしてしまった。「奥さまは魔女」の5番目のシーズンを最後に、社会復帰への訓練に専念するために降板した。ダーリン役の交替については当時からいろいろな噂が飛び交っており、その一つとして「ヨークが、サマンサ役のエリザベス・モンゴメリーのわがままに耐えられなくなったから」というのが、日本でもまことしやかに通用していたという。この真相はともかく、残りのシーズンで「ダーリン」をつとめたディック・サージェントと比較して、ヨークの演技力が格段に優れていたために、降板を惜しまれていたことがしのばれる。

献身

仕事を失い破産して、所有していた建物まで手放すという困難に遭いながら、妻ジョアンと奮闘し、身体が回復したときには150ポンドも体重を増やし、歯のほとんどは無くなっていたという。ヨークの死後発表された妻の回顧録『The Seesaw Girl and Me』によると、彼が演技にふたたび興味をもち、俳優として復帰するまでにはさらに時間がかかった。「Simon and Simon」や「Fantasy Island」をふくめ、いくつかのゴールデンアワー・テレビ番組に出た頃には、増やした体重を減らすことに成功していた。晩年は気腫のため、ミシガン州・ロックフォートの小さな家で闘病生活を過ごした。彼自身も寝たきりの身でありながら、ボランティア団体を結成し、電話を使って政治家や有名人・一般人に呼びかけ、ホームレスを助けるための義捐金を募るなど活動に最後まで尽くしていた。