カビラの戦い

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カビラの戦い
戦争第三次ミトリダテス戦争
年月日:紀元前72年
場所:カビラ
結果:ローマ共和制のめざましい勝利
交戦勢力
ローマ共和制 ポントス王国
指導者・指揮官
ルキウス・リキニウス・ルクッルス ミトリダテス6世
戦力
5個軍団と多数の補助兵


歩兵:30,000
騎馬隊:1,600〜2,500

歩兵:36,000 [1]
騎馬隊:4,000 [1]
損害
不明(ポントス側よりは軽微) 3,000 [2]

カビラの戦いとは、紀元前72年(または71年)、プロコンスル:ルキウス・リキニウス・ルクッルス率いるローマ共和制配下のローマ軍団と、ミトリダテス6世率いるポントス王国軍とがCabira(=ミトリダテス6世が王宮を建てた場所として知られる古代都市)にて衝突して発生した戦闘である。

ポントスの開戦

ローマはミトリダテス6世とこれまでに2つの戦争を交えていた。第一次ミトリダテス戦争第二次ミトリダテス戦争である。最初の戦争にてローマがアジア属州を手に入れてから、ミトリダテスは80,000人のローマ人とイタリア市民を虐殺しておりローマとしてはミトリダテスを許せるはずもなく、これがさらなる戦争の原因になった。紀元前74年、ビテュニア王国がローマ共和制に併合され(ビテュニア王ニコメデス4世による王領の譲度による。)、事態は大きく進んだ。ローマとの戦争を望んでいたミトリダテス6世は紀元前73年にローマ共和制:アジア属州に侵攻。ビテュニアの最初のローマ人統治者であるマリウス・アウレリウス・コッタを打ち破り、(カルケドンの戦い)コッタ率いる残存ローマ軍団をカルケドンにて包囲した。コッタと共に執政官を務めていたルクッルスもまたポントス王国に対して戦争を望んでおり、そのためにこの侵攻を理由にキリキアにおけるプロコンスルに就任、ここからポントス王国に攻め入ろうとした。それから間もなく、ルクッルスはアジア属州に到着。(ちょうどその頃、コッタの苦戦が伝えられた。)小アジアにおけるローマ全軍の指揮官を得たルクッルスは未だにカルケドンにて包囲されていたコッタを救助するため北に向けて進軍した[3]

ローマの反撃

紀元前72年、ルクッルスはガラティアを経由してポントス王国へと進軍。ガラティア人はローマ人と同様にポントス王国に対し反発していたためローマ側に対しては何も抵抗はせず、王国内のローマ軍団の通過を認め、物資の提供を行った。 ローマ軍がポントス王国の心臓部に到達するや否や、ルクッルスは配下の軍団に対し王国内の肥沃で金銀に潤っている町への略奪行為を許可した。その一方でポントス側はこの略奪行為を止めることは出来ず、打ち破られた自軍の再結成に追われていた。ミトリダテスは結局40,000人の歩兵部隊と4,000騎の騎兵隊を集結させ、カビラ近郊にてルクッルスを待ち構えた[4]。そして遂にルクッルスもカビラに進軍を再開したが、そこで小規模の戦闘が相次いで発生し、これにより一旦ローマ軍団は撤退を余儀なくされる。これよりしばらくの間戦闘は散発的にに勃発し、ルクッルスの暗殺未遂事件まで引き起こされることとなる。

戦いの時

ルクッルス軍団の補給は南に位置するカッパドキア(ローマ共和制と同盟を結んでいた。)から輸送されていた。

脚注

 

  1. ^ a b Plutarch, Vita Luculli, XV
  2. ^ Philip Matyszak, Mithridates the Great, Rome's Indomitable Enemy, p.121
  3. ^ Philip Matyszak, Mithridates the Great: Rome's Indomitable Enemy; Lee Fratantuono, Lucullus: the Life and Campaings of a Roman Conqueror.
  4. ^ Philip Matyszak, Mithridates the Great: Rome's Indomitable Enemy, p. 119; Appian, Mithridatica, 78.