明恵帝姫
明恵帝姫 | |
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続柄 | 英宗第三皇女 |
称号 | 蜀国長公主(追贈:明恵大長帝姫) |
身位 | 公主→長公主 |
出生 |
皇祐3年(1051年) |
死去 |
元豊3年5月17日 (1080年6月13日) |
配偶者 | 王詵 |
子女 | 王彦弼 |
父親 | 英宗 |
母親 | 宣仁皇后 |
明恵帝姫(めいけいていき、1051年 - 1080年6月13日)は、北宋の英宗の三女。正妻の宣仁皇后の次女で、神宗の同母妹である。
生涯
[編集]父の英宗が即位すると、宝安公主の位を授けられた。治平4年(1067年)1月、兄の神宗により舒国長公主に進封された。熙寧2年(1069年)7月、蜀国長公主に改封され、左衛将軍の王詵に降嫁した。王詵との間に王彦弼を産んだが、夭折した。
公主は母の宣仁太后や姑の盧氏に孝事し、王氏の家族をみな援助した。盧氏は寡居の身であったが、公主の近所で暮らし、毎日美食をふるまわれた。盧氏はまた重い病いを患ったが、公主はみずから薬を持って看病した。公主は「賢主」と称賛された。
王詵は画家として著名であり、奔放で自由な生活を好んだ。公主は夫に対して厳しくなかったため、王詵は蘇軾らの芸術家としばらく放蕩生活をした。結局、元豊2年12月26日(西暦で1080年)に王詵は免職されたが、元豊3年(1080年)4月、公主が病気中にその求めで復職された。公主の看病の際、王詵は侍女たちと公主の側で姦通し、侍女たちは公主を嘲笑した。公主は自身を看病する太后や神宗にこのことは黙っていた。翌日(5月17日、西暦で6月13日)、公主は30歳で薨去した。神宗は号泣して公主の府邸に急ぎ、朝廷を5日間停止した。
その後、公主の乳母は王詵のことを神宗に上告した。神宗は激怒し、王詵は免職追放され、8人の侍女は兵卒と結婚させられた。公主は越国長公主を追贈され、「賢恵」と諡された。元祐元年(1086年)11月、越国大長公主の位を再追贈された。元符3年(1100年)3月に甥の徽宗により秦国大長公主を改贈され、荊国大長公主に進み、政和2年(1112年)閏4月に魏国大長公主を改贈された。政和4年12月(西暦で1115年)、賢恵大長帝姫の位を再追贈され、政和5年(1115年)1月、明恵大長帝姫を改贈された。
伝記資料
[編集]- 『宋史』
- 『宋会要輯稿』