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桓宗 (西夏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桓宗 李純佑
西夏
第6代皇帝
王朝 西夏
在位期間 1193年10月 - 1206年3月1日
姓・諱 李純佑
諡号 昭簡皇帝
廟号 桓宗
生年 乾祐8年(1177年
没年 応天元年(1206年)3月
仁宗
章献欽慈皇后羅氏
陵墓 荘陵
年号 天慶 : 1194年 - 1205年
応天 : 1206年

桓宗(かんそう)は、西夏の第6代皇帝。諱は純佑。仁宗の長男。

生涯

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天慶7年(1200年)に母の羅太后が病に罹ると、から医師を呼んで薬を処方させた。

天慶12年(1205年)に西夏は初めて[1]チンギス・カン率いるモンゴル軍の侵入を受ける。モンゴル軍の包囲を受けた力吉里(エリンリキ)の城砦は陥落し、経落思(ケレンクルシ)城は略奪され、住民とラクダがモンゴル軍に奪われた[2]。翌応天元年(1206年)に羅太后と甥の李安全を中心とする一派によって帝位を廃され[3]、配所で没した[4]

脚注

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  1. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、83頁
  2. ^ C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注)、85頁
  3. ^ 「七月、使純佑母羅氏為表、言純佑不能嗣守、与大臣定議立安全為王、遣使奏告。」、『金史』巻134、列伝72、外国上
  4. ^ 「泰和六年三月、仁孝弟仁友子安全、廃純佑自立、再閲月死於廃所。」、『金史』巻134、列伝72、外国上

参考文献

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  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透 訳注、東洋文庫、平凡社、1968年3月)
  • 金史』巻134、列伝72、外国上
  • 宋史』巻486、列伝245、外国2、夏国下
先代
仁宗
西夏の第6代皇帝
1193年 - 1206年
次代
襄宗