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成蟜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姓名 嬴成蟜
時代 戦国時代
生没年 生年不詳 - 秦王政8年(前239年
本貫・出身地等
職官 将軍
爵位・号等 長安君〔秦〕
家族・一族 父:荘襄王
母:韓国夫人[1]
兄:始皇帝
子:嬴嬰[2]

成蟜(せいきょう)は、中国戦国時代末期の公子秦王政(後の始皇帝)の弟。長安君に封ぜられたがのちに謀反を起こし、討伐された。

生涯

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秦王政8年(紀元前239年)、成蟜は軍を率いてを攻撃したが、そのとき屯留と蒲鶮の兵卒を従えて謀反を起こしたとされる。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留の壁塁の内で自殺したとされる[3]。軍吏はみな斬首され、反乱兵たちの遺体は辱められた。その地の民は臨洮に遷された。

生母と子女

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生母については、父の荘襄王が邯鄲を脱出して秦に帰国した際、邯鄲に残した趙姫と嬴政の無事は不明であり、荘襄王が生母である夏姫を安心させるために娶った韓出身の夫人との間に生まれたと唱える説がある[1]:62

また、上記の説を唱える歴史学者の李開元の説では秦の最後の君主である子嬰は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれた彼の子であると言う[2]

脚注

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  1. ^ a b 李, 開元 (2010) (中国語). 《秦謎:秦始皇的秘密》. 台北市: 聯經. ISBN 9789570836523 
  2. ^ a b 『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している李開元 (2006年7月16日). “秦王子嬰為始皇弟成蟜子説——補《史記》秦王嬰列伝” (中国語). 象牙塔网络. 2020年7月25日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ 張守節史記正義』:言成蟜自殺壁壘之內。

参考文献

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