心即理

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心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそであるとする[1]中国南宋陸九淵王陽明が定義した。

人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。

朱子学のように心ととを分別しないのが特徴である[2]朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」(街中の人すべてが聖人)というように、すべての人が本来的に聖人であるとし、その心の良知を静坐により発揮しさえすれば(致良知)、それが聖人の証であるとした。

心即理説は人間そのものを認めるため、やがて人間の心が持つ欲望をそのまま肯定するようになる。王学左派、李贄(卓吾)がその代表的人物であり、彼は外的な規範をすべて否定し孔子をも批判するにいたった。また、すべての人に聖人となる可能性を認めたため、儒学士大夫の学ではなく、庶民の地平にまで広げた。このため陽明学は反体制を擁護する思想となっていくのである。

脚注[編集]

  1. ^ 島田虔次 『朱子学と陽明学』 岩波新書 28刷1999年 p.108.
  2. ^ 厳密には、朱子学において心は「性(五常)と情(四端七情)の統一体」(『朱子学と陽明学』pp.92 - 93)と分析されていたが、陸象山は心を「渾然たる一者」と捉え、それがそのまま理(心即理)とした。島田虔次 『朱子学と陽明学』 p.108.