孫壱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

孫壱(そんいつ)は、中国三国時代の同姓同名の皇族宗室である。

孫壱 (沙羨侯)[編集]

孫 壱(? - 259年)は、三国時代の人物。呉の宗室の一人。父は孫奐(庶子)。兄は孫承。弟は孫封。妹は女子二人(滕胤妻・呂拠妻)。

234年に父が死去し、その跡を継いだ兄も243年に没したため、庶子の孫壱が採り立てられた。

夏口を守備し、鎮南将軍となり軍権を任されていた。諸葛恪が誅殺されると、孫峻の命令で朱績・全煕と共に、公安に駐屯していた諸葛融を攻撃し、自殺に追い込んだ。この功績で鎮軍将軍となり、仮節を与えられた。

従子の孫綝が実権を握ると、それに反発した滕胤と呂拠が謀反を起こしたが討伐され、弟もこの件に関与していたため自殺した。孫壱自身も呂拠一族の縁戚であったため、孫綝に疑われるようになった。

257年、孫綝はでの諸葛誕の反乱を支援するため寿春に出兵したが、その一件に託け孫壱を排除しようと考え、朱異に命じて孫壱を攻撃させた。孫壱は朱異の軍が武昌まで来たところでその意図に気づき、部曲千人と滕胤妻を引き連れて魏に亡命した。魏においては車騎将軍・儀同三司に任命され、また呉侯にも封じられた。さらに曹芳(斉王)の妃(邢氏、未亡人)を与えられるなど、再三の厚遇を受けた。しかし、邢氏が嫉妬深く乱暴をよく働いたため、259年にそれを恨んだ家臣によって殺害され、その時に孫壱も巻き添えとなり殺されてしまった。

孫壱 (宛陵侯)[編集]

孫 壱(生没年不詳)は、三国時代の人物。呉の皇族。祖父は孫権。父は孫覇(魯王)。兄は孫基

孫皓が即位すると兄とともに爵位を剥奪され、祖母の謝姫と共に会稽に流された。