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大黒梅陰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大黒 梅陰(だいこく ばいいん、1797年寛政9年) - 1851年6月12日嘉永4年5月13日))は、江戸時代後期の漢学者。大黒屋光太夫の子[1]通称は亀太郎。

生涯

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14歳で商人の家に奉公に出る。奉公先での仕事は熱心であり、店の主人の覚えもよかった。主人は読書家であった梅陰のために、金貸しで得た利息を梅陰の学業に費やしたという。梅陰自身、主人を篤く慕い、主人の死後、息子の不行跡によって商家が傾くと、主人の未亡人を支援して、借金の肩代わりを行い、また終生彼女の面倒を見た。

読書家であり、若い頃から書物を広く渉猟し、博識となった。父光太夫の死後、若干の銀を賜り、近所に家を構えて母を養い、門人を集めて教鞭を取るようになる。その学問は朱子学を中心としていた。

梅陰は、自分の培ってきた学問は所詮は雑学であり、名高い識者達のような傾聴に値する卓識はないが、一途に講読、講釈に励みたい、と語っていた。

1851年、55歳で死去。本郷元町の興安寺に墓所がある。墓碑銘は安井息軒が撰した[2]

人柄

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体格に恵まれ、剣豪と見間違うほどの偉丈夫であった。性格は素朴、恬淡であり、争い事を好まず、質実剛健を信条とし、読書に没頭した。また、他者が自分の本を借用することを願うと、喜んで快諾したという。

実母は厳しい人柄であり、梅陰の謹直な性格には、彼女の影響があったとされる。梅陰は実母をはばかり、終生嫁を娶らなかった。

脚注

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  1. ^ 知の職人たち-南葵文庫に見る江戸のモノづくり-”. www.lib.u-tokyo.ac.jp. 2021年10月27日閲覧。
  2. ^ 『墓碑史蹟研究 第8巻』1350頁

参考文献

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  • 大日本人名辞書刊行会編『大日本人名辞書 下巻』1453-1454頁(大日本人名辞書刊行会、1926年)
  • 磯ケ谷紫江『墓碑史蹟研究 第8巻』(後苑荘、1935年)
  • 石山洋ほか編『江戸文人辞典』(東京堂出版、1996年) ISBN 4490104278