塩冶掃部介

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花輪違(七宝に唐花)

塩冶 掃部介(えんや かもんのすけ、生年不明 - 文明18年1月1日1486年2月5日))は、室町時代から戦国時代にかけての武将。通称は荒法師。出雲国守護代京極氏の家臣。なお、掃部介とは諱ではく百官名である。

塩冶氏は出雲の国人。文明16年(1484年)、出雲の守護代尼子経久が主君京極政経によって追放された。掃部介は新たな守護代として月山富田城に入城する。

文明18年(1486年)元旦、毎年恒例の万歳が行われた。しかし、浪人となりながら富田城奪回を狙っていた経久の策で、城で毎年芸能を披露する鉢屋衆は経久と密かに手を組んでおり、尼子軍に夜討ちを仕掛けられた。これにより、掃部介は妻子を殺害した後、自害した。富田城脇に彼の墓が残っている。

ただ、掃部介の名は塩冶氏の史料には記載がなく、またそれらの史料にも掃部介に該当する人物は見られないため、近い人物は居たと思われるが、創作の人物と見るのが妥当であると考えられる。

掃部介の墓[編集]

伝・塩冶掃部介墓

富田城下にある掃部介の墓をみだりに荒らすと、必ず祟りが起きるという伝説がある。